子供のデカダンス

─葛西善蔵

 

「テーブルの上が果しない荒野のように思われ、その向うに座っている家族がひどく遠くに感じられることがある。紅茶の湯気。

孤独は、どんな『幸福な家庭』の中にもすきま風のように吹きこむ。

そんなとき、口ずさむやさしい言葉の一節。

他人もみな自分と同じなのだということを知るために」。

寺山修司『孤独』

「問題は山ほどあるけれど、僕は子供だけを例にとった。そのわけは、僕の言わなければならないことが明瞭にそのなかにあらわれているからだ。いいかい、すべての人間が苦しまなければならないのは、苦痛をもって永久の調和を贖うためだとしても、何のために子供がそこへ引き合いに出されるのだ、お願いだから聞かしてくれないか?」

ドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』

 

 かつて平野謙は三派鼎立論を提唱した。それは明治四十年ごろの自然主義文学の成立以後に、私小説派・プロレタリア文学派・モダニズム文学派の三つの傾向がさまざまに変容しながら、日本近代文学は構成されてきたという理論である。

 その三派鼎立論を踏まえて、伊藤整は、『求道者と認識者』において、私小説家を次のように分類している。

第一の私小説家としては、(これはさらにAの心境小説とBの私小説に二分されるのだが)花袋、藤村、秋声、泡鳴にはじまって、心境小説派では長与善郎、武者小路実篤、志賀直哉、滝井孝作、尾崎一雄、上林暁、外村繁という脈をたどることができるものである。私小説プロパーまたは破滅型の私小説としては、近松秋江にはじまり、葛西善蔵、牧野信一、嘉村磯多、太宰治、坂口安吾、田中英光などが一つの系列となるもののようである。

 どんな複雑な地図でも四色あれば塗りわけられるのだ。それは一つのグラフ理論である。伊藤整の分類は、ノースロップ・フライが解剖学であるとすれば、古医方である。文学ジャンルの分類は中心的登場人物と構成によって規定されるのであるが、この分類は、古典的な私小説の定義に基づいている。私小説は、古典的理解では、作者自身を主人公として、その日常生活における体験を書き記すという文学形態である。けれども、この定義では、小林秀雄が、『私小説論』において、私小説と告白を同じ文学様式として扱っているように、告白と私小説の間に差異が存在しないことになってしまう。今日まで私小説の定義をめぐってさまざまな議論がなされてきた。私小説の意味合いも、もともとは温石で腹を温めることで、懐石程度に空腹をしのぐ茶会料理を意味していた懐石料理が今では豪華な料理となってしまったように、日本文学において変容してきたのである。伊藤整の分類の中には、坂口安吾などのように、私小説家に属するとは言えない書き手は少なくない。また「破滅型の私小説」という定義にしても、太宰治の作品は主人公がその共同体への同化を描いているように、悲劇的要素は私小説には乏しく、「心境小説」と「破滅型の私小説」というカテゴライズは不適当である。私小説のような文学様式は、精進料理が日本でしか発達しなかったごとく、西洋文学にはあらわれなかった。そのため、私小説をめぐる考察は日本文学においては、内外問わず、最も中心的な議論の一つとなっている。私小説を、告白と同様に、生活世界と芸術世界との一致から定義することは十分とは言えないのである。なるほど、私小説についての古典的な定義が完全に誤謬であったわけではない。私小説は告白に対するアンチ・テーゼとして出発していたのだから。だが、告白は、私小説とは違って、内省的な文学様式である。それは、内村鑑三の『余は如何にして基督信徒となりし乎』が明らかにしているように、認識の論理的・理論的帰結を示す。告白は主観の極限化を志向する、もしくは世界を主観の意識に還元する文学ジャンルなのである。告白はその主観の極限化によって客観と一致しようとすることを求めた時期があった。告白がかつて信仰告白であったのは、その主観と客観の一致を神が橋渡しをしてくれると思われていたからである。一方、私小説は主観を追及したり、または世界を主観の意識に還元することはなく、むしろ、客観存在から主観のありようを把握しようとする。私小説の「私」は客体の一つにすぎない。私小説は主観=客観の分裂以前の古代ギリシア的ではまったくない。それは、近代小説が近代認識論的な主観=客観の図式に基づいている以上、近代小説の一変種なのだ。私小説が近代小説ではないという通説があるようだが、それぞれの世界の構造は同一である。ただ私小説は、近代小説が形而上学的であるのに対して、物理学的なのだ。私小説の具象化した物理学は解析学的である。物理学的因果法則は、ニュートンが「すべての微分方程式を解くことができる」と言ったように、級数論と運動方程式による質量概念の確立によるわけだが、デカルトの代数学的関数はニュートンによって数値的に、さらにライプニッツによって普遍代数的に克服されることから、解析学が成立したのだ。

 私小説が解析学的であることは志賀直哉の『暗夜行路』後編の十九における気分と一体化した次のような有名な件が告げている。

疲れ切ってはいるが、それが不思議な陶酔感となって彼に感じられた。彼は自分の精神も肉体も、今、この大きな自然の中に溶込んでいくのを感じた。その自然というのは芥子粒程に小さい彼を無限の大きさで包んでいる気体のような眼に感ぜられないものであるが、その中に溶けて行く、──それに還元される感じが言葉に表現できないほどの快さであった。何の不安もなく、睡い時、睡に落ちて行く感じにも多少似ていた。一方、彼は実際半分睡ったような状態でもあった。大きな自然に溶込むこの感じは彼にとって必ずしも初めての経験ではないが、この陶酔感は初めての経験であった。これまでの場合では溶込むというよりも、それに吸込まれる感じで、或る快感はあっても、同時にそれに抵抗しようとする意志も自然に起るような性質もあるものだった。しかも抵抗し難い感じから不安をも感ずるのであったが、今のはまったくそれとは別だった。彼にはそれに抵抗しようとする気持は全くなかった、そしてなるがままに溶込んで行く快感だけが、何の不安もなく感ぜられるのであった。

 『暗夜行路』の主人公時任謙作は鳥取の大山登山の途中で迎えた曙光を眺め、従兄弟と肉体関係になってしまった妻直子を許す。ここはその部分である。自然と人間という区別を主人公は感じていない以上、彼は自然美に浸っているのではない。主観と客観の分裂はここにはもはやないのである。見るものと見られるものの間の距離は失われ、主人公はそこで作用する気分そのものになった。主人公が妻を許すのは、主観的な理由づけでも客観的な理由づけでもなく、それを合一するような気分になった感じがしたからである。すべてを形象化する描写、色彩をを感じさせず、奥行きのない背景、隙間というものの消失、単純明瞭な素朴さに貫かれた一義性、歴史性・人間性の貧しさ、他者や対他・対社会的関係の不在という特徴を持っている。それは、数学的に言うと、x(実数)軸とiy(虚数)軸によって構成される複素平面での極限の概念を定める問題を考えるため、無限遠を設定し、二次元平面を写像することによって、そこの任意の点は三次元の球の表面に移されるという複素関数に関する解析の最初歩のテクニックである。こうした方法は実数と虚数をあわせた平面をつくる場合、実数と虚数は裏と表の関係にあるが、大きさのある実数に対して虚数は大きさがないので、極限概念を定める必要がある際に用いられる。ここで注意しなければならない。数学において、中心的絶対性は存在しない。と言うのも、中心的絶対性そのものが一つの定義にすぎないからである。同様に、中心の相対性も一つの定義に基づいて設定されるため、相対性そのものも独立して存在していない。しかしながら、その定義もあくまで人為的なものなのである。すなわち、無限遠に焦点をあわせることによって、対象と自分の間があたかも実体化=形象化するよな錯覚が生ずるのであり、私小説は気分がいかに作用するかということを描くのであるが、気分との一体化も人為的なものにすぎないのだ。

 文学作品を数学によって、読解することは、数学者でもあったルイス・キャロルのケースを見るまでもなく、突飛な企てではない。文学は、歴史的に見て、自然科学と密接な関係を持っているのである。分化した時代のほうが、むしろ、短いくらいなのだ。ドストエフキスーは、『カラマーゾフの兄弟』に、ロバチェフスキーの非ユークリッド幾何学を登場させている。逆に、アインシュタインはスピノザを、ハイゼンベルクはアカデメイアの門に「幾何学を知らざるもの、入るべからず」と掲げたプラトンを、それぞれ本気で復活させようとしたのである。ただし、平行線が無限遠点で交わるのは非ユークリッド幾何学ではなく、射影幾何学の範疇に属する。また、ニコライ・ロバチェフスキーやボヤイ・ヤノシュは、一点を通って支えられた直線と交わらない直線を無数にひくことができないという意味の非ユークリッド幾何学を発見したが、ゲオルグ・フリードリヒ・ベルナルト・リーマンは一点を通って与えられた直線は一本もひくことができないという意味の非ユークリッド幾何学を発見している。前者は曲率の量が負で一定である曲面上の幾何学と同一であり、後者は曲率が正で一定の曲面上の幾何学であり、曲率が0の曲面上の幾何学がユークリッド幾何学であることが、後に、明らかになった。非ユークリッド幾何学のリーマン空間とアルベルト・アインシュタインが利用したリーマン空間も同一のものではない。それはさらに広い曲面上の幾何学である。アインシュタインは四次元のリーマン空間を、五次元のリーマン空間を拡張して、さらに拡張された統一場の理論、カルツァ・クラインの理論を論じている。リーマンは、一八五九年、複素数の変数に対してその値がゼロとなる無限個の点があるゼータ関数の自明でないゼロ点の実数はすべて二分の一であるというリーマン予想を提出した。一九〇四年、アンリ・ポアンカレは単連結な三次元閉多様体は球面しかいないというポアンカレ予想を提示した。問題を示すものと問題を解くものの二つのタイプがいる。問題の提出よりも、評価されることが遅くなるので、解答のほうを優先する傾向にある。フェルマーの大定理にしても、難問は極めて基本的でシンプルなものである。それはおそらくこの世がそういうものなのだろう。文学は意味と意図の不一致という状態をまぬがれえない。この考えていることと在ることがまったく違ってしまうことは、農業技術者であるノーマン・ボーローグが「緑の革命」と呼ばれる小麦改良によって農業技術に関する賞ではなく、ノーベル平和賞を受賞したように、われわれの生の条件であるが、数学も例外ではなく、その乖離を埋めようと試みられてはいるのである。化学の授業で、色の美しさのために、鉄の化学反応に関するレポートを叙事詩として書いたこともあったわれわれは、高校生のころ、組み合わせ論が得意だった。この離散数学には数学的知識以上に、直観力が要求されるからである。大学入試程度であれば一分以内にすべて解けたものだ。組み合わせ最適化問題の代表である巡回セールスマンの問題――多くの都市をセールスマンが一度ずつ回ってもとの都市に戻るには、どんな順番で行えば最短距離になるか――は近似解と厳密解の関係を求めることが関心となっている。考えられる経路の数は、五百都市でも、十の千乗を超えているのであるが、もっとも厳密解でも数千都市が限界であり、応用によっては数万から数百万都市の問題を解く必要があって、厳密解は最短距離を求めるのに時間がかかりすぎるという矛盾をかかえているため、解の厳密さと計算の速さの折半を求める近似解をはやく出す方法が研究されているのである。そして、その乖離が、逆に、新たな可能性につらなることも少なくない。ついでに言うと、「セールスマンの死」(アーサー・ミラー)も考慮にいれておかなければならない。数学や物理学以上に錬金術や聖書年代学に熱中していたニュートンは最後の錬金術師と言われているが、中世の錬金術は現代において化学的方法ではなく、晩年には『新錬金術』を発表したりもしたラザフォードが、地球の大気中の中で最も含有比率の高い窒素にヘリウム原子の原子核であるα線をあてて、次に含有率の高い酸素に変換したように、物理学的な方法において実現しているのである。このような量子力学は、原子力発電などを可能にしている点から考えても、二十世紀の錬金術と呼ぶべきだろう。数学を含めた自然科学も、文学と同様、このようにわれわれの生のあり方を表わしているのである。

 ところで、私小説の世界は気分に基づいた一元論的な自然科学的な世界であるとしても、先に解析学的であると指摘したように、それだけでは不十分である。と言うのも、古代ギリシアにも気分を論じたアナクシメネスの哲学があるからなのだ。気分という言葉を構成している「気」は、必ずしも、東洋思想特有なものではなく、古代ギリシアにおいても類似した形で見られるのである。アナクシメスは、ディオゲネス・ラエルティオスの『ギリシア哲学者列伝』によると、「単純で飾り気のないイオニア方言で著作した」が、今ではいくつかの断片が残っているにすぎない。アナクシメスはダーウィニズムを思い起こさせるほどの大がかりでシステマティックなアナクシマンドロスよりも後退している、もしくはアナクシメネスはアナクシマンドロスの粗悪な修正と見なされている。なぜならば、一元論的であることは変わらないが、アナクシメスが、アナクシマンドロスの「ト・アペイロン(無限なるもの)」を退け、「もとにあるフュシスは一つで無限(アペイロン)である」として「無限な空気(アエラ・アペイロン)がアルケーである」と主張したから、すなわち、アナクシメネスは「アエール(空気)」という具体的なものをアルケーにしたためである。しかし、われわれはアナクシメネスが師であるアナクシマンドロスの理論を批判的に継承していると考えなければならない。私小説はこのアナクシメネスの「アエール」説をまったく体現してないのである。「アエールが神である」とまで考えたアナクシメネス以前には「アエール」は肯定的に評価されてはいなかった。ホメーロスに登場する「アエール」は物を見ることを妨げる大地にたちこめる暗く湿った「もや」や「かすみ」のようなものであって、「水」と密接な関係があったのである。その後のヘシオドスの『労働と日々』では、「アエール」は天と地の間に起こる水の循環によってさまざまな現象――雲や雨、虹など――との関連において、天と地の間に吹く「風(アネモス)」や、「気息(プネウマ)」をも包括するものとして理解されていた。アナクシメネスはそれらをさらに進ませ、「全コスモスを、プネウマ(気息)とアエールが包んでいる(ペリエケイ)」、とまで言ったのである。アナクシメネスのコスモスは、大地は「アエール」の上に浮き、太陽も月も星も「木の葉のように」、「アエール」に浮かび、「帽子がわれわれの頭のまわりを回転するように大地のまわりを動く」火でできた「平たい」円板であり、これは、アナクシマンドロスのコスモロジーに比べると、タレースにむしろ近く、この点が否定的に評価されている原因であるが、アナクシマンドロスの「ト・アペイロン」では実証性に欠け、また、生成変化を説明することが困難であるという問題点があったのであって、アナクシメネスはそれを克服したのだ。「ト・アペイロン」は万物を包括し、始まりも終りもない永遠運動をし、万物を支配するのであるけれども、アナクシマンドロスの断片においては、「ト・アペイロン」から「熱と冷を生む胚種」の「分泌」と「分離」のメカニズムがいかにして起こるのかということに関する説明がない。そこで、「それ(アエール)はつねに運動している」と考え、「アエール」の「濃縮化(ピュクノーシス)」と「稀薄化(アライオーシス)」によって、アナクシメネスは系譜学的な発生図式を退け、質的変化と量的変化とを関連させたのである。

 アナクシメネスは、「アエール」という一つの根源的なものの「濃縮化」と「稀薄化」によって、さまざまな物質状態――熱い=冷たいや重い=軽い、乾いた=湿ったなど――ができると次のように説明している。

濃縮されたり稀薄にされたりすることによって、それ(アエール)はさまざまに現象する。なぜなら、いっそう稀薄になって拡散すると、それは火になるが、他方、風は空気が濃縮されてできるのであり、雲は空気をフェルト状にするとできるからである。これがさらに濃縮されると水ができ、さらに濃縮の度を加えると土ができ、最大限に濃縮されると石となる。

 濃度は集合論においても重要な概念であるが――集合の大きさを濃度というタームでで表わす――、そこでは記号化が前提になっている。「濃縮化」と「稀薄化」の変化を、微積分を用いて、図式化することはできない。記号化とはまったく無縁だったアナクシネスは世界の生成・変化を日常的に知られている事柄によって説明しているのである。「アエール」という同一のものの圧縮や稀薄のような質的変化を粒子分布という量的観点による説明は原子論の登場を予感させるわけだが、「アエール」という発想は今日でも別の認識から有効的なのだ。例えば、雨の前の日、子供や動物が活発に動きまわるのは、低気圧が近づいてくると、湿った南風が入りこみ、空気中の陽イオンが増し、それが中枢神経を刺激するからである。私小説における気分は質的変化をしないため、アナクシメネスの「アエール」とは違って、「それを最初のものとしてそれから生じていき、またそれを最後のものとしてそれへと滅んでいくところのそのもの」(アリストテレス『形而上学』)であるアルケーではない。私小説の空間・時間は、気分に基づいており、均質的である。アナクシメネスの自然科学の世界はニュートンの均質的空間・時間によって構成されている熱力学に最後の可能性を表わすことになる古典力学的な世界ではないのだ。古代ギリシアの数学は、近代数学と違って、まったく記号化に関心を払っていなかった。古代ギリシアの力学は、ローマ人に殺されたというアルキメデスのてこの原理や(流体力学の)アルキメデスの原理にしても幾何学的であるが、ニュートンの力学は解析学的なのである。だから、アルキメデスには微積分の、ユードクソスやユークレイデスには実数論や位相空間論の、アポロニオスには解析幾何のかすかなる萌芽があるものの、彼らはそれぞれの創始者ではない。軍人皇帝時代のローマのアレクサンドリアで、数学の記号化を追及したティオパントスこそいるものの、古代ローマでは建築・土木は発達したが、数学・物理学はさほど進展せず、記号形式の完備や機械学への関心が表われて解析学の用意が整ったのはガリレイの登場するルネサンスの時代である。従って、解析学を前提とした私小説の「私」は極めて記号的であり、古代ギリシア的世界とはあいいれないのだ。

 ここでわれわれが古代ギリシアと呼ぶのは一つのエピソードである。数学や物理学などは古代ギリシアに限って表われたものではなく、古代インドや古代中国においても発達していた。さらに、それらを結ぶ地点にあるペルシアを含めたイスラム世界があった。そこでは哲学的な議論としてではなく、数学の関心は商業を中心とした日常生活の要求によって数を扱うことであったから、負数や無理数などが飛躍的に発達したのである。アラビア数学では方程式が盛んだったが、それを受けて、十六世紀末に少数が生まれたすぐ後に、対数が表われた。微積分よりもはやくそれが編み出されたのは、対数はイタリアの次にオランダ、そしてイギリスと当時のヨーロッパでの商業の中心地で論じられているように、複利計算などに用いるため、商業には不可欠だったからである。日本近代文学の図式は、それらの作品がいかに日常的な世界を扱ったとしても、「俳句・短歌命数論」を唱えた正岡子規などを除けば、代数学的ではないのは、商業に対する嫌悪が原因であると考えてさしつかえないだろう。古代ギリシアの自然哲学はエジプトやオリエント諸国に起源を持つものがほとんどである。そして、記号化を斥け続けた古代ギリシアは、ニーチェが『悲劇の誕生』で言ったように、生まれ育った場所で自殺したのだ。

 客観秩序はア・プリオリに存在しているわけではなく、その秩序づけは主観によって構成され、主幹と客観は決して一致しない。自然科学的な客観性は、時代よって、変化する。デカルトの時代、ニュートンの時代、アインシュタインの時代、それぞれにおいてその客観性の基準は異なっている。エドムント・フッサールの『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』によれば、近代認識論的世界観はガリレイの測定術に端を発するわけだが、それには三つの大きな特質がある。第一に時間・空間の均質性、第二に世界の総体を客観的な因果連関の系列として把握することの可能性とその数式化、第三に心身二元論である。「物理学の、したがってまた物理学的自然の発見者ガリレイ(略)は、発見する天才であると同時に隠蔽する天才でもある。彼は、数学的自然、または方法的理念を発見し、(略)それ以後端的に因果法則と呼ばれるようになったもの、すなわち『真の世界の、『アプリオリな形式』を発見し、また理念化された『自然』のあらゆる出来事が精密な法則に従わなければならないとする『精密な法則制の法則』を発見した。これらはすべて、発見であるとどもに隠蔽であるのに、われわれはこれらを、今日まで掛け値のない真理として受けとっている」(同)。ガリレイの場合には、当時の政治的諸事情がかなり影響している。ガリレイなどが教会にとがめられ始めるのは十六世紀末にイタリアが急進的なカトリック国であったスペインの支配下になったからであって、それ以前はコペルニクスなどもローマの教会内部ではかなり肯定的に論じられていたのであり、地動説は、ガリレイのころは、暗黙のうちに公認されていたのである。しかしながら、フッサールの指摘は、ガリレイよりもニュートンにおいて、意識化されているのだ。ガリレイは、『天文対話』において、「理解するということは二様に、すなわち外延的か内包的かのどちらかの意味にとることができます。外延的に、無限にある知られるべきことに関しては、人間の理解力はたとえ千の命題を理解したとしても無です。というのは千も無限にとってはゼロ同様ですから。しかし、理解ということを内包的にとれば、人間の知性は完全に(自然そのものが理解するほどに)理解し、それについての絶対的確実性を(自然そのものがもつほどに)もつことになります。これこそ数学的科学です。これらについて、全知の神はたしかに無限の命題を知っています。しかし、人間の知性の理解した少数のもので、その認識の客観的確実性は神の認識の確実性にひとしいでしょう。人間の知性は、そのことについて、もっとも確実と思われる必然性を理解することになるのですから」、と述べている。こうした言葉からガリレイがデカルトと同時代に属していることがわかる。大学に筆記試験を導入したニュートンの力学では、彼自身が、『プリンキピア』において、「人間の呼吸と動物の呼吸、ヨーロッパとアメリカでの石の落下、台所の火の光と太陽の光、地球での光の反射と遊星での反射、それらは同一の原因によって語られねばならない」、と言っているように、空虚な時間・空間のような均質な空間・時間が前提にされているのだ。われわれは彼がデカルトではなく、カントと同時代人であると言うことができよう。ニュートンは、ガリレイ以上に、「物理学的自然」を「発見」し、「隠蔽」することを自覚しているのである。言い換えるならば、ガリレイが意識していないが実行していたことをニュートンは顕在化して押し進めたのだ。例えば、それは時計が物語っている。ガリレイは振子の等時性を発見し、振子の一ゆれごとに歯車の歯を一つずつ進ませて時計をつくることを考えたが、実現には至らなかった。今日の時計の原形である振子時計は、十七世紀に、ニュートンの少し前に生まれ、ライプニッツに無限小解析を教えたホイヘンスが、二階導関数などを用いて、考案した。ホイヘンスは、単振子だけではなく、物理振子について言及している『振子時計』の中で、そこで展開している物体の円の中心に向かう加速度の式は、ニュートンが万有引力の法則を発見する際に、参考になっているのである。古代ギリシアには加速度という発想はなく、加速度はガリレイが落体の実験で明らかにした考えなのだ。もっとも、ニュートンとホイヘンス間には、光が何であるかという問題をめぐって、前者が粒子説を、後者が波動説をとっているという違いがあるのだが。今日の時間は振子時計の考案によって認識されるようになった「物理学的自然」なのだ。芸術は、振子時計の登場が十八世紀のハイドンの『時計交響曲』が可能になったように、その「物理学的自然」のミメーシスなのである。

 私小説家にとって、文学は自然そのものであり、「物理学的自然」のミメーシスであるという認識はなかった。だからこそ、彼らの作品はニュートン物理学的な世界の影響下にあるのだ。そう考えると、私小説家は生活不能者・性格破綻者であるがゆえに、文学や芸術によってしか自分自身を救済することができぬ「逃亡奴隷」(伊藤整)であるとか、福田恆存のように、私小説家に「自己劇化」や「自己正当化」が見られると批判することは見当違いである。確かに、私小説家にはそうした側面があることは認められるし、それか彼らの作品の世界を生み出した一つの原因でもあるだろう。私小説は美の世界や善の世界ではなく、真の世界を体現している。この真は、先に述べたように、古代ギリシアとは違って、あらゆることが「同一の原因によって語られねばならない」近代認識論的な主観=客観の図式に基づいている。私小説は「同一の原因」として気分を設定し、それを作用する主体とし、他のすべてを客体とする。私小説は、その意味で、到達できない理想である。私小説は純粋に方法であるとすればもはや不毛であるが、方法論的に目標であるとすればまだまだ可能である。あるがままを書くという私小説は、書くことにおける自然科学的な一つの理想状態を意味しており、これまでに、実は、真に達成されたことはない。今、真を追い求める私小説を書くことは愚鈍な試みであり、私小説を書くにはよりいっそうの意識的な姿勢が要求されるのである。それを体現していた書き手は私小説家の中にはこれまでいなかった。むしろ、私小説にアンビヴァレントな感情を抱き続け、「私は中途半端がすきだ」と公言した平野謙の批評において、その意識的姿勢は存在していたと言ってよいだろう。

 私小説は、確かに、ある世界を提示していることは認められるとしても、文学的に、批判される必然性はある。その一つとして、自己の相対化の不在があげられる。ドナルド・キーンの『子規と啄木』によれば、「私小説では、その作者の生活がいかにこまかに描写されていても、その中心になるものが抜けているという印象を我々が受ける場合」が多く、「それを書いた人間が、不幸で一人ぼっちで、あるいは社会から締め出されているということはわかっても、その人間が他の同じように神経質な人間とどう違うかがはっきりしない」のであり、「知性と生きることに対する貪婪な意欲」は「そういう私小説の作家の陰気な内省の記録には稀にしか見られない」。私小説の「私」はデカルトのコギトではない。コギトは方法的懐疑を用いる知性に裏打ちされている。私小説は反知性的文学様式にほかならない。私小説家は自らを相対化していないわけだが、相対化が必要なのは、自分自身の精神の態度に見られるからくりを知るため、すなわち、自らにおける不明瞭なものに対して眼を閉じることをしないためである。それは、寺山修司のフィクショナルな要素の強い自伝『誰か故郷を想はざる』を読めば、明らかになろう。そこには私小説家が持ち得ない知性で生きる逞しさがある。もし彼が私小説家であったなら、それだけで一生食っていけるような経験があふれている。例えば、母親が無理心中(未遂)をはかった記述がある。けれども、その出来事は、女性性器の名前を知ったことと、何のシニシズムも自己欺瞞もなしに、同一のレヴェルに置かれによって、相対化されているのである。寺山修司のの作品の経験は私小説家の描く経験とは、そのメリハリにおいて、比較にならないだろう。つまり、私小説家は相対化できていないために、自分自身に対する「距離」がアブノーマルなのである。

 サイデンステッカーは、『谷崎潤一郎』において、日本小説の「芸術的距離」は不安定だと次のように述べている。

リアリズムの小説が一体何故日本に根を下ろさなかったかという疑問をとく道は、いろいろ有るだろう。私は別の場所で、急速度で変化しつつある社会に生ずる、或る種の断片化または隔絶のために、作家が大きな社会的情況を捉えるのが困難になったのではないかとのべた。こうした困難が芸術的な「距離」という問題に密接に結びついている点は、疑いのない所である−−芸術的な距離というのは、小説かが彼自身と作中人物との間に保つ距離のことであり、彼が十九世紀フランス並びにイギリスの最良の伝統につながる小説を物しようとすれば、必ずや一歩下って、作中人物を冷やかな皮肉をふくんで観察する「距離」を必要とするはずである。そこで、小説家の過ちは、二つの方向において生じ得る。つまり、作中人物たちから余り離れすぎて、暖かみに欠け、すべてがプロットを押し進めるための傀儡と化し去ったしまうか、それとも作中人物に近づきすぎて、たえず干渉を加えて、彼らが自由に発言することを妨げ、極端な場合には、作者自身が作中に乗り出し、その結果小説を杼情詩や随筆や日記の一節の如きものに変えてしまうのである。この二種類の過ちはともに、情況の中の本質的な諸要素を把えそこねること−−間近から、しかも近寄りすぎずに相手を観察できるような距離測定の力を欠くことから来ている。最近出た英訳日本短篇選集に対するアメリカの書評の一節を引用すれば、作者たちは「自ら生み出した小説的情況の中で自身の足場が心もとない」といった有様なのだ。

 今日の小説は、ノースロップ・フライが『批評の解剖』で指摘しているように、アイロニー様式に属している。私小説も、志賀直哉の『小僧の神様』という後味の悪い嫌味な作品を読めばわかるように、西洋の近代小説と同様に、アイロニー様式を保持している。西洋的なリアリズムの小説が日本に根づかなかった理由は、リアリズムはミメーシスの認識パターンであるから、それを可能にする文体が日本語には不十分であったので、そこに見られる「距離」が近づきすぎたり遠すぎたりしていることもその一つとしてあげられるわけだが、その点を考慮するならば、そうした小説以上に日本の自然主義文学や私小説がリアリティーを読み手に与えていることも少なくないし、また日本の小説が当時の日本人自身が「自ら生み出した」時代や社会の「情況の中で自身の足場が心もとない」ことを形象化し、表現していたとも言えるのである。日本文学においてリアリティーの問題、すなわち同時代の現実をリアルに描くことにかかわったのは、あまりにも具体的なために抽象的な問題を欠いていた葛西善蔵ではなく、自然主義文学者であり、私小説家なのだ。私小説が「日本的」であると感じられるのは、西洋のリアリズム小説が同時代的な現実を歴史的動向としてとらえているのに対して、そこに等質的な一様性を描いているからで、それが「日本」の匂いをたちこめさせているのである。さらに、「距離」がうまく保てていないということは欠点であるけれども、それが手法にまで高められ得るならば、むしろ、新たな形式を創出する重要な要素となる。例えば、ルソーの『告白』は、従来の文学作品と比べて、作者と作中心物との「距離」は近づいている。私小説は告白と「距離」感が異なっており、告白における私が有意味的記号、すなわち「表現」(フッサール)であるが、一方、私小説にとって「私」は無意味な指示的記号、すなわち「指標」である。私小説は、意味と記号の不一致をはらんでしまう比喩がほとんど用いられないように、予定調和によって終結する。気分は作用する主体であっても、(万有引力のような)力ではない。私小説は(「不快」から「調和的気分」へと移行する状態についての)運動方程式なのである。漱石の作品にも気分が描かれることは少なくないが、漱石の作品は私小説とは呼べない。と言うのも、そこでは気分と気分の内容があるわけではなく、気分とは必ずある対象についての気分だからである。ところが、私小説では気分と気分の内容とにわけられている。私小説が批判されるのはこの点にある。

 私小説の描くものは現実世界にはゴロゴロしているあたりまえのことにすぎない。もっともそれは私小説に限らないのである。日本だけでなく世界的に、小説はあまりにもたいしたことのない事件を大袈裟に扱っているのだ。たいしたことのない事件を、おそらく書き手が人生を真面目に生きたことがないために、もしくは人生について頭を使って考えたことがないために、読む側も人生を真剣に生きたことがないからそれを認めてしまう馬鹿らしさのために、あたかも特権的な経験として書いているのである。すさまじい経験をしていたなら、小説を書くことにはならない。それは小説におさまりきるものではないから。ただあたりまえすぎるから、みんな沈黙しているのだ。人並みはずれた経験をしたならば、現時点では、物書きにはならないであろう。書き手に必要なのは、それがたいしたことがないという自覚なのである。

 私小説家に言わせれば、彼らを自らの相対化を忘れていると批判するアレゴリー的書き手や反自己表現的な書き手は自分自身の特殊性を棚において、普遍性を語ろうとしていると批判があることだろう。「詩人が普遍に対する特殊を求めるか、あるいは、特殊のうちに普遍を見るかは大いに異なる。前者からはアレゴリーが生まれ、その場合、特殊は一例、普遍の一例にすぎない」(ゲーテ)。しかしながら、ルポルタージュ的記述によって「私」自身を表出する私小説家の手法それ自体が表わしているように、自らの特殊性を棚に置いて普遍性を述べているのは私小説家のほうなのである。アレゴリーにこだわる作家は、固有名詞に固執するわけだが、固有名詞が他にかけがえのないものであるから、それはつねにそれが確立されない手法によってなされている。アレゴリーとシンボルは優劣の関係にあるわけではない。大切なのは、思っていることと在ることの不一致として表われざるを得ない自らの生とは何かを問うことにほかならないのである。

 「私は、光太郎の実生活を否定した芸術史上主義がわるいと言うのではない。たった一人の妻をもだましつづけることができずに、百万の鑑賞者をだませる訳はないと言いたいのである」と記す寺山修司は、「妻・智恵子」(『さかさま文学史黒髪篇』所収)において、高村光太郎と智恵子の関係から私小説家を次のように批判している。

一体、だれが智恵子をこんなふうに追いつめていったのか?

 元はと言えば、何もかもが光太郎のまいた種子ではなかったのだろうか?

 甘えたがる智恵子に対し、光太郎はいつも「私達の愛を愛といってしまふのは止さう」とたしなめていた。

 「もう少し修道的で、もう少し自由なのだから」と。

 この言葉を、二人の新しい愛のかたちだったと言うことは易いだろう。

 しかし、智恵子には、それはついていけない考え方だったのである。智恵子には、光太郎はあまりにも「立派な人」でありすぎ、理解することができなかった。

 しかし、光太郎は、

 「僕がいくら早足に歩いてもあなたを置き去りにする事はないと信じ、安心している」と言っていた。

 だが、智恵子には、それがとても重荷だった。

 いつも観察され、何かを言えば詩に書かれてしまい「二人きりのもの」は失われてしまっている空っぽの生活。そのくせ、自分は一人だけ早足で、どんどん先へ行ってしまう光太郎。

 もはや智恵子の遊び相手はにんげんではなく砂浜の千鳥だけであった。

 たった一人、家を抜け出して海にゆく。

 むずかしい「芸術論」も、つめたい「言葉だけの愛情」もない、千鳥は智恵子の唯一の友達である。(略)

 だが、こうした智恵子のいこいのひとときも、光太郎は詩に書いて、雑誌に発表してしまうのだった。

 たから、智恵子の心のやすらぎは、もはや実人生のなかには、どこにもなかった。ただ、狂気の世界だけが、唯一の逃げ場だったということになるのである。

 私小説的手法は書き手自身ではなく、書かれる人たちを追いつめていく。本人さえも押しつぶされそうな私小説の世界の狭さでは、書かれる人たちをも入りきれるわけがない。私小説家は自分だけでなく、対象すべてをその余裕のない世界に押しこんで、自分と同じように、息をつまらせることを強いるのだ。こんなゆとりのない世界を示されては、言いたいことはありすぎるほどあっても、そうすればまた書かれて、勝手に解釈されてしまうから、その人の前を去るか、発狂してしまうほかないだろう。

 対象は私小説家にあまりに大きく描かれたり、あまりに小さく描かれたりされすぎる。われわれは、同じ理由で、アレゴリー作家であるはずの大江健三郎が彼の息子について書いた作品を認めない。書かれることそのものが、「重荷」になるから、嫌なのではない。書かれて嬉しいこともある。けなされて書かれるのが嫌なのでもない。ほめられても嫌な場合だってあるのだ。私小説家に限らず、ほとんどの芸術家はちょっと有名になると、関係者と思われる人たちのことまでもあれこれ詮索される。しかも、生きている間だけでなく、死後に及んでも、私的色彩の強い書簡にいたるまで、いろいろと公にされてしまうのである。こういう状態は、その人たちにとって、決して望むものではないが、さりとて、厭うものでもない。少しの名誉を与えてくれることもある。嫌なのはただ書かれるのにとどまらず、さまざまに解釈されてしまうということなのだ。

 けれども、解釈されることが嫌なのではない。ただ、一方的に、あまりに思わぬときに、見られて、自分自身の居場所がないようにされてしまうのが嫌なのだ。一緒に顔をつきあわせて考えるならば、解釈も楽しい。二人の愛の話をしたつもりなのに、まったく違うようにとってしまったとしたら、その人はあまりにも鈍感だ。すべてわからなくともいいから、何を言おうとしていたのかなと察するだけのやさしさがあって欲しい。書くためにだけではなく、生きるためにも一緒にいることに喜びを感じたい。「僕がいくら早足に歩いてもあなたを置き去りにする事はない」なんてどうでもいい。一緒に歩きたいのだ。「逃げ場」のない世界は、精神的にも肉体的にも、きつすぎる。

 見られるために、書かれるために、解釈されるために、人は生きているわけではない。自分自身として生きようとしているだけなのだ。芸術家だって、見るために、書くために、解釈するために、生きているのではないだろう。芸術制作よりも、自分自身として生きることを先に試みたらいい。そんなこともわからない芸術家の作品が人を感動させられるわけがない。あの人について芸術をつくる距離はあの人と唇を重ねる距離よりも遠い。

 かりに芸術史上主義者として生きると決めたのなら、どうせならすべてを死ぬまでだまし続けるほどのゆとりが必要なのだ。正直以上に偽善のほうがいいときもある。と言うのも、状況によっては、偽善者は善を意識して偽るのだが、正直者は素朴に悪をただ露出しているだけだからである。この善は自分と異なった背景を持った他者とのコミュニケーションから派生してくるものなのだ。他人の世界に土足で入るようなことが無礼だとわからないほど私小説家はあまりにも正直すぎる。

 まず黙って、ただ愛して、書くのでも、「二人きりのもの」を残し、「逃げ場」つくってからにして欲しい。たまには放っておいてくれないかと書き手に頼みたいほどだ。愛は「二人の相互関係によって生み出される」ものであって、「鑑賞」したり、「一方的な愛玩の具」などではない。創造する人と創造される人との関係など愛ではないのだ。相手を眺める距離と一緒に生きて、一緒に年をとる距離とは違う。前者は、後者に比べて、匂いもしてこないほどに離れすぎている。あの人を愛するように芸術を愛することなど遠すぎてできやしない。つまり、われわれが私小説家が嫌いなのは、そうした書き手が「粘土の彫刻の女人像にも、心があるのだということを知らない人間音痴」だからである。

 伊藤整には私小説家に分類されながらも、以上のことを考慮すると、そう呼ぶことのできない作家の一人として、葛西善蔵(一八八七─一九二八年)があげられる。日本文学史において、葛西善蔵は論じられる機会の少ないマイナーな作家であり、私小説家の一人にすぎず、彼に対する評価は不当に低い。なるほど私小説を読解する際に、葛西善蔵の作品を扱う必要はない。私小説を分析するためならば、彼の作品なんかよりも志賀直哉や広津和郎、近松秋江、嘉村磯多を読めばよい。私小説として彼の作品を考察するならば、たかだか私小説という文学ジャンルの一形態を説明する程度にとどまってしまう。けれども、そういう見当はずれのアプローチが、彼らの論文に比べると本論があまりにアンバランスかつグロテスクであることは否定しないけれども、葛西善蔵の文学的価値をを貶めているのである。弟子の嘉村磯多は私小説家であるが、葛西善蔵の作品は私小説に分類することはできない。私小説が獣魚鳥肉を使わず野菜・海草などを主とする精進料理であるとすれば、彼の作品には獣魚鳥肉が、ふんだんとは言わないまでも、かなり使われているのである。古典的私小説の定義にとらわれない批評家たちにもなぜ彼が私小説家として分類されているのか疑問である。葛西善蔵の作品は、一九一二年に発表された最初の作品である『哀しき父』の冒頭の「彼はまたいつとなくだんだん場末へと追い込まれていった」が表わしているように、一様にシンボリックな書き出しから始まる。そして、彼の作品は、『哀しき父』の最後の「彼は静かに詩作を続けようとしている」という一節が語っているように、小説、と言うよりも、むしろ散文詩である。詩は具体的な対他関係・対社会的関係に言及することはできないので、それは暗示させるしかない。彼の作品にはそうした表現がしばしばなされている。梶井基次郎の作品も散文詩であが、梶井基次郎の作品が冴えかえった色彩によって彩られた油絵を想わせるのに対して、葛西善蔵の作品はうちわに描かれた水彩画をイメージさせる。「陰気な内省の記録」の見られない葛西善蔵の作品には、「知性と生きることに対する貪婪な意欲」に貫かれているのだ。私小説は近代認識論的な自然科学の図式に基づいているが、葛西善蔵の作品は、坂口安吾もそうであるけれども、古代ギリシア的な自然哲学の図式を基盤としている。つまり、私小説が解析学的・古典力学的であるのに対して、彼らの作品は幾何学的・自然哲学的である。古代ギリシアの哲学・数学に(背理法こそあったものの、不可能の証明を思いつかなかったため、三大難問にソフィストが頭を悩ませていたことからも)限界があったように、彼らの文学や思想にも限界があることだろう。しかし、むしろ、われわれは彼らが限界に隣接していたことによっていかなる姿勢をとりえていたのかを読みとる必要があるだろう。

 葛西善蔵を私小説家の一人として扱ってはいるものの、野口武彦は、「大正批評の諸問題」(『近代日本の批評 明治・大正篇』所収)において、葛西善蔵について次のように言っている。

 これは批評にならないんだけれども、『子をつれて』というのがありますが、記号論流行以来の「作品の中の私と書いている私」なんてことが、およそ成り立たないわけです。妻に逃げられて、貸家を追い出されて、子どもを連れて、とりあえず泣きやませるために大衆食堂に入って、子どもにエビフライを食わせて、自分は酒飲んで、どうしようかなと思う、というところで終わる。その後、生き延びていなければその作品が書けないわけです。そういうので綴っていくわけね。そうすると、次にこの作者はどういうことを書くんだろうと期待する読者が、一定数できるわけですよ。そういう読者社会が厳然とできあがっている。大正文学というのはほとんど、明治からそうだけれども、東京一点集中なんです。その読者社会が、これは明治からずっと地続きだけど、できたというのはものすごく面白いと思う。

 作品は読み手にその後を想像させる作用を持っていなければならない。葛西善蔵は、読者を意識して、書いていた。ところが、日本の作品は読み手の想像力を抑圧するものが多く、しかもそうした作品が評価されるという病的な事態が少なくないのである。野口武彦はこうした指摘が「批評にならない」と言っているが、残念ながら、それを論じなければならないのが、日本の批評の実態なのだ。

 葛西善蔵の作品は、繰り返しになるが、志賀直哉や嘉村磯多らの私小説とは「似て非なる友」(プルタルコス)である。例えば、それはゲーデルの不完全性定理とエピメニデスのパラドックスの関係に相当する。ゲーデルの不完全性定理は、彼自身が認めているように、エピメニデスが示した嘘つきのパラドックス−−「彼らのうちの一人、預言者自身が次のように言いました。『クレタ人はいつも嘘つき、悪い獣、怠惰な大食漢だ』(『テトスへの手紙』一章十二節)−−に類似している。All Cretans are liars. I am Cretan. Therefore I am a liar.ゲーデル自身もそれを利用して説明している部分もあるためか、日本において、両者を同一視して語られていた時期もある。しかし、両者には差異がある。不完全性定理は次のようなものである。自然数の理論を形式化して得られる公理系においては、その公理系が無矛盾である限り、次のような論理式Aが存在する。(1)論理式Aはその公理系から証明できない。(2)「Aでない」ことを意味する論理式もその公理系からは証明できない。公理系が無矛盾であるときには、「それが無矛盾である」ことを言い表わしている論理式も、その否定も、その理論の中では決して証明できない、すなわち決定不能である命題が存在するというものである。一方、後者では、「『……嘘ではない』が証明可能」と仮定しても矛盾、「『……嘘である』が証明可能」と仮定しても矛盾であるわけだから、そこには証明不可能という余地が残されている。つまり、不完全性定理は証明可能=不可能の決定不能である命題の存在を告げているのに対して、嘘つきのパラドックスは命題の証明可能=不可能にかかわる議論なのである。カントの批判はゲーデルの不完全性定理ではなく、むしろ、嘘つきのパラドックスのヴァリエーションなのだ。野口武彦が言うように、集合論に基づいた記号論的読解が幾何学的な葛西善蔵の作品に対して成り立たないのは当然の事態である。記号論は記号化に無関心だった古代ギリシア的作品には不向きなのだ。今日、法則のある学問に数学がある。チョムスキーの文法構造やレヴィ=ストロースの親族構造、ピアジェの認識構造などは数学である。定性的法則だけではなく、統計学と結びついた定量的処理を通じて、数学は諸学と関連をより強めたのだ。「数学は社会構造の一部である」(森毅『数学の歴史』)。けれども、こうした見解に対して抵抗感を抱くものもいることだろう。定積分の概念がリーマン積分からルベク積分へと拡張されたような進歩もあり、数字ですべてがわりきれることなどできはしないとこめかみに青筋をたてて反論するものが後をたたないが、割り算には余りがあるケースもあることくらい数学者自身が知っている。さらには、コールドバッハの問題、すなわち2より大きな偶数は素数の和で表わすことができるという問題はその不可能性を含めて証明されてはいない。現在までのところ、これはおそらく正しいのではないかと見なされている。数学はこのようにeasy-goingなのである。数学を毛嫌いするものほど、むしろ、シリアスなのだ。つまり、数学は、微分方程式が数理経済学の効率を最大にするという原理にも用いられているように、楽をするための学問なのである。スポーツでも、自然科学に関する知識と関心がなければ、いいプレーはできないのであって、自然科学を無視しようとする文学者はあまりにも素朴であろう。

 葛西善蔵は、生涯を通じて、定職につくことはなかった。「孤独な彼の生活はどこへ行っても変わりなく、淋しく、なやましくあった。そしてまた彼は一人の哀しき父であった。哀しき父−−彼はこう自分を呼んでいる」(『哀しき父』)。彼の生活は、古代ローマや唐の詩人のように、作品を書くか、子供と遊ぶか、旅をするか、酒を飲むかのいずれかだったのである。そして、葛西善蔵は、当然のごとく、妻には逃げられてしまった。そして、晩年にいたっては、自分は酒を飲みながら、弟子の嘉村磯多に口述筆記をさせているのである。広津和郎は、『葛西善蔵君の一面』において、「もし誰かが葛西善蔵のような生活を真似たら、それは鼻持ちのならないものとなるだろう。彼の生活は彼だから構わないのだ。彼だから許せるのだ。そしてそれ以上にさらに、彼だからその生活からそれだけのある人間味を我々に味わわせるのだ。彼は最も幸福な素質−−この正直爺さんの素質を、生まれながらに神から授けられてきた」、と言っている。広津和郎に限らず、葛西善蔵の周囲の彼をめぐる回想記は、借金を踏み倒されたものでさえ、明るく、恨んだ口調はまったくない。少々の横柄さがあっても、葛西善蔵なら仕方がないと、逆に、周囲に好印象を与える雰囲気があったというわけだ。誰とも、志賀直哉が差別的であったのとは違って、遠慮なく対等につきあえるような人なつっこさが彼にはあったのである。要するに、私小説家は、概して、暗く、好感を持てないが、葛西善蔵は明るく、どこか人をハッピーにさせるようなところがあったのだろう。

 葛西善蔵は、一九一二年六月三日船木重雄宛書簡において、自分の人生について次のように書いている。

 自分の本当の我が儘を云えば、僕は少しも他人と共通な処がありたいと思ってもいず、社会的に、一般的に標準せられて、彼是云われるのを面白からずと思っている。(略)僕は自分独特なものでありたい。出来得べくんば歴史も、時代も超越した自分独自の統一あるライフを送りたいと望んでいる。

 葛西善蔵は決して変わり者として生きたいと告げているのではない。「社会的に、一般的に標準」となっている価値にしたがって「ライフ」を送るのではなく、自分自身として生きることを願っているのである。「他人と共通な処がありたい」と思ってもいないとしても、実際にそうであるかは別問題なのだ。歴史や時代は、「ライフ」にとっては、その存在意義を満たす一般的条件にすぎない。つまり、葛西善蔵は、自分自身の「ライフ」は歴史や社会の条件の如何にかかわらず、その「ライフ」のうちでその都度充実されることを希望しているのだ。

 従って、彼は、一九一〇年八月二七日光用穆宛書簡において、日常生活に関心を払っていると次のように書いているのである。

 僕は寧ろ平凡な日常生活に細かい観察を向けたいと思って居る。発作的な感激や、理屈の遊戯を離れて、平凡非凡美醜そのままの具体的表現を望んでいる。その日その日の虫けらと同様というような平凡な人間のライフに立ち入って見れば、実に驚異に堪えない複雑な生活の糸がクモの巣の様に張られていて、アートの熟練のない僕等を絶望させる。

 これは、先の引用に比べると、等身大な発言である。日常と非日常の関係は、葛西善蔵にとって、優劣にはない、日常は非日常に奉仕すべき性質を持っていなければ、非日常が日常を活性化させる役割を果たしているわけでもない。また、彼は、作品を書く際に、日常の中の非日常を発見することを提唱しているのではないのである。日常を対象としているか、それとも非日常を対象にしているのかということは、とり扱い方がその問いとなるのだから、その作品の文学的価値を論ずる論点にはならない。日常と非日常を区別することは、厳密には、不可能である。葛西善蔵は、フランスのモラリストたちのように、具体的な「日常生活に細かい観察を向け」て、反省を加え、普遍的な「ライフ」のあり方を求めようとしているのだ。彼は対象とする日常生活を孤立させたりすることはしないのである。外界の必然的な法則に支配されることを、彼の感情を喚起するのは、後に述べるように、やはり外界なのであるが、警戒している。彼は「虫けらと同様というような平凡な人間のライフ」に目を向け、新たな印象を次々に抱き、さらに具体的にふみこんでいった。それが葛西善蔵の方法なのである。私小説は日常生活のスナップ写真のよせ集めであるが、彼の作品は「観察」を濃縮してつくりあげた「日常生活」の像にほかならない。それゆえ、彼の「絶望」はモンテーニュの言う「私は何を知っていよう?」である。

 葛西善蔵は、『兄と弟』において、今生きているあるがままを信じていかなければならないと次のように述べている。

 俺が一人になって、生活が楽にでもならば、それで俺にもいろいろな事が出来ると思って居るか知らんが、そんな中途半端な方便や手段で本当の道というものは開けるものでない。現在このままを信じなければならない、現在のこのままで燃えて行かなくてはならない。

 今日において、小説を書くということは方法論的であるほかない。新たな方法論によって新たな世界を提示するのならば、それが私小説であっても構わないだろう。しかし、葛西善蔵にとって、書くことは自らの「ライフ」と不可分である。葛西善蔵はピュアな芸術至上主義者ではない。彼はたんに自由意志によっては選択不可能な運命としか言いようのないやむにやまれぬ「自分独自の統一あるライフ」を完成させることを「望んでいる」だけなのだ。別の「ライフ」スタイルを強いられることは、結局、不幸でしかない。と言うのも、細く長く生きるかあるいは太く短く生きるかという二律背反ではなく、いかに充実して生きることこそが目標だからである。人は一つの「ライフ」スタイルを身につけている。いいにしろ、悪いにしろ、それはやむべからざる個性とでも言うほかないものである。その「ライフ」を誰も根本的には変えることはできない。変えたと誰かが喜んでいるとしたら、それは自己満足的な思いこみにすぎないのだ。こうした姿勢で作品を書くならば、それはたんに書くことでは終わらない。読み手の存在、そして彼らの記憶の中に定着することによって、その行為は一つの完成を迎える。なるほど葛西善蔵は太く短く生きた。しかし、読み手は、もし彼がその先もう少し長く生きたとしたらどうなっていただろうか、と想像することは読み手の幸福であり、特権である。読み手がそうすることによってその作家の文学的な「ライフ」を完成させる。作家は読み手にそのような快感を与えてくれる存在でもある。

 葛西善蔵は、『小感』において、小説家について次のように述べている。

 どうせ小説家なんていうものは、酔漢に非ずんば、痴漢−−のみとでも言おうか。他人の酔体を笑うよりか、己の痴体についても多少の反省を持つがよい。そして濫りに他人の芸術に就いても、人格についても、兎角のことは言わぬがよろしい。身の程知らずという言葉がある。お互いに酸漢だとか痴漢だとかいい出したら、際限がないじゃないか。鼻持ちならない話である。

 これは皮肉と謙虚を秘めた言葉ではない。小説家は、葛西善蔵によれば、「酔漢」や「痴漢」のような軽蔑されるべき存在である。小説家というものは芸術的価値によって自らの存在を正当化することはできない。けれども、それを自虐的に思いつめるべきでもないのである。どちらの見方もルサンチマンの表われなのだ。小説家とはやむにやまれぬ一つの「ライフ」にすぎないのである。自らの存在がいかに固有で、自らの経験がいかに固有であっても、言語化したときには、他者の存在と他者の経験となってしまう。言語はつねにわれわれを相対化する。すなわち、われわれは、言語においては、他者の経験しか持つことができないのである。自らの経験を語ることは決して容易なことではないのだ。自虐的な議論はこの困難をすりぬけているのである。自らの存在は固有であるが、言語は社会的なものであり、そこに超えられない溝がある。われわれの経験は、この書くという行為を意識的に通じたとき、その溝と直面せざるを得ないがために、真の経験になり得る。経験の大小が問題なのではない。「お互いに酸漢だとか痴漢だとか」いい出す私小説家に欠けているのはこの真の経験であり、それゆえ彼らの作品は他者との差異性を感じさせないのだ。従って、何を書くかではなく、いかに書くかが問題となるのである。だが、それはたんなる技術論ではない。

 葛西善蔵は、『朝詣り』において、書くことは「垢」を絞り出すことだと次のように書いている。

「私は物が書けなかったり考え事をしたりする時の癖で、掌や指を強くこすって垢をより出すのだが、この数日で掌が真赤になり、ヒリヒリと痛むほどだ。今夜も火鉢の中や炬燵の掻巻きの上にだいぶ垢がより出されたのだが、三時四時の時刻が来ても原稿紙の上には一字の記録の垢も絞り出されなかった」。

 葛西善蔵は突然どこかともなく霊感として訪れてきたものを書くわけではない。彼は自分自身の生活や内的経験を吟味することによって、書くのである。葛西善蔵にとって、書くことは「垢」を絞り出すこと、「垢」すりなのだ。「垢」は恥ずかしく、汚らしいものであり、とても人に見せられるようなものではない。書いたものを後から自分自身で読み返すと、赤面し、絶望すらしてしまうと告白する書き手も少なくない。主観と客観が分裂してしまった近代認識論の下では、肉体は、精神に対して相対的に、恥ずかしいものとして扱われてきた。書く行為を精神的な領域に属しているものと見なして、それをごまかしてきたのだ。書くことは精神的なものではなく、肉体的なものなのである。けれども、卑下することも、必要以上に誇らしげに振る舞うこともない。書くことによって新陳代謝のために古くなった自分自身を「垢」として捨て、新たな自己が生まれる。従って、それは真偽ではなく、美醜の問題であり、葛西善蔵の作品の基盤的原理は美であることがわかるだろう。

 葛西善蔵が美の原理に基づいることは『子をつれて』が次のように告げている。

 幾本目かの銚子を空にして、なおしきりに盃を動かしていた彼は、時々無感興な眼つきを、踊り子の方へと向けていたが、「そうだ! 俺には全く、ことごとくか無感興、無感激の状態なんだな……」こう自分に呟いた。

 幾年か前、彼がまだ独りでいて、こうした場所を飲み廻りほつき歩いていた時分の生活とても、それは決して今の生活と比べて自由とか幸福とか言うほどのものではなかったけれど、しかしその時分口にしていた悲痛とか悲惨とかいう言葉−−それらは要するに感興というゴム毬のような弾力から弾き出された言葉だったのだ。しかし今日ではそのゴム毬に穴があいて、凹めば凹んだなりの、頼りも張合いもない状態になっている。好感興悪感興−−これはおかしな言葉に違いないが、しかし人間は好い感興に活きることが出来ないとすれば、悪い感興にでも活きなければならぬ、追及しなければならぬ。そうにでもしなければこの人生というところは実に堪えがたいところだ! しかし食わなければならぬということが、人間から好い感興性を奪い去ると同時に悪い感興性の弾力をも奪い取ってしまうのだ。そして穴のあいたゴム毬にしてしまうのだ−−

 「そうだ、感興性を失った芸術家の生活なんて、それは百姓よりも車夫よりもまたもっと悪い人間の生活よりも、悪い生活だ。……それは実に悪生活だ!」

 私小説は真の原理に基づいており、彼らは、真のためならば、美や善といった原理を奉仕させる。一方、葛西善蔵には、「感興性を失った芸術家の生活」は倫理的に悪であって、「感興」と「感激」に覆われた生活は美しい生活であり、倫理的に善である。彼の貴ぶものは古代ギリシア的徳である。「感興」は「好い」にこしたことはないが、それに恵まれなければ、「悪い感興にでも活きなければならぬ」。「感興」の好悪は芸術家としての生活の質を決定するのであって、善悪とは直接的には関連がない。彼の倫理は「感興性」の有無の問題なのである。「感興性」を失って生きている自分自身は何のはりあいもない「血のつまったただの袋」(カフカ)にすぎない。彼には私小説の「私」のようなただの存在であることには耐えられない。従って、葛西善蔵の場合、芸術を創造する力となっている「感興」を求めるという欲望である。

 葛西善蔵はかつての記憶や体験を想起しているが、それが過去のものとして扱われていない。過去のものを想起するとき、それを覚えている理由をわれわれに教えてはくれない。そこにはただ覚えているという事実だけが現在ではある。記憶そのものは、むしろ、感触としてのみあるのである。葛西善蔵はただ覚えているという事実だけを、何らかの心理的解釈を加えることなく、書いている。その感触の有無が倫理的次元にまで高められているのである。つまり、葛西善蔵の作品では過去も未来もなく、すべては現在と同じ絶対的事実として表わされているのだ。

 葛西善蔵の時間概念の独自性を次のような文体が告げている。

 彼はまたいつとなくだんだんと場末へ追い込まれていた。

 四月の末であった。空にはもやもやと靄のような雲がつまって、日光がチカチカ桜の青葉に降りそそいで、雀の子がジュクジュク啼きくさっていた。どこかで朝から晩まで地形ならしのヤートコセが始まっていた……。

(『哀しき父』)

 掃除をしたり、お菜を煮たり、糠味噌を出したりして、子供らに晩飯を済まさせ、彼はようやく西日の引いた縁側近くへお膳を据えて、淋しい気持で晩酌の盃を嘗めていた。すると御免とも言わずに表の格子戸をそうっと開けて、例の立退き請求の三百が、玄関の開いた障子の間から、ぬうっと顔を突き出した。

(『子をつれて』)

 葛西善蔵は出来事の時間的継起の順序に私小説家のようにとらわれることはしなかった。彼の時間は私小説家が固執する物理学的因果関係によって整理されていない。葛西善蔵は精密な因果関係に構成された順序のもとに書いてはおらず、ただ偶然にしたがって記述しているのである。自己の外にある「物理学的自然」としての時間が経過していくのには無関心であり、ただ自己の内側にある時間に基づいている。このように時間に関する独特な認識が表われており、葛西善蔵の作品には外部からではなく、内部からの視線だけによって成立しているのである。

 例えば、内部からの視線から構成されていることは、『哀しき父』において、次のようなイメージ豊かな記述によって表現されている。

 彼は気の進まない自分を強いて、午後の散歩を続けている。そしていつか、彼は彼の散歩する範囲内では、どこのランプ屋では金魚を置いている、置いてないかが大概わかるようになっていた。彼は都会から、生活から、朋友から、あらゆる色彩、あらゆる音楽、その種のすべてから執拗に自己を封じて、じっと自分の小さな生活に黙想しているような冷たい暗い詩人なのであった。それが、金魚を見ることは、彼の小さな世界に焼鏝をさし入れるものであらねばならない。彼は金魚を見ることを恐れた。そして彼はなるべく金魚の見えない通りを見えない通りをと避けて歩くのであったが、うっかりして、立ち止まって、ガラスの箱のなんかにしなしなと泳いでいるのに見入っていることがあった。そして気がついて、日のカンカン照った往来を、涙を呑んで歩いているのであった。

 彼の作品では次々と視点が移動する。一見したところでは、あまりに無造作で一貫性が欠けているようにうつるので、書き手はたんに気紛れなのかと誤解してしまいそうである。まず、その対象を放り出し、何かが喚起されるのを待っている。それが表われかかると次へと眼は移り行く。そのとき、「涙」のような喚起された感情だけが残っている。ここでは個体の真偽と出来事の順序と因果性は無視され、その意味や解釈は問われていないのである。しかし、葛西善蔵は、説明的叙述をしないことから、感情をまったく信じていない。それは言葉であり、フィクションなのである。対象による感情の喚起は、突然「涙」が登場してくるように、非論理的であるかのように見える。この喚起された感情は物質のごとく存在する。葛西善蔵にとって、意識ではなく、物質のような感情だけが存在する。従って、存在が、彼には、感情なのである。

 存在が感情であるならば、実は、対象そのものは見えないことがわかる。彼の恐れる「金魚」は対象ではないのだ。その具体的な理由はまったく説明されず、イメージだけが提示されているのである。対象そのものを読み手は知ることができないので、それを想像するほかない。対象に対する「距離」は内的にはゼロであり、現象は意味づけや価値判断をされないままに、次々に流れていく。葛西善蔵は直喩を排除して、物自体を寓話的に表現している。言い換えるならば、物自体を押し隠すことによって、現象だけを描写し、逆に、物自体を現前させているのである。詩は氷山の一角だけを表わし、残りをイメージさせるために、通常、比喩が用いられるわけだが、あかさらさまな比喩的表現でないにもかかわらず、この部分の描写は詩的である。詩的とは抽象的な対象に対して知覚が想像力へと転換される瞬間を指すのであるから、あからさまな比喩表現が詩的とは、空疎な比喩を濫用する高橋和己の作品が明らかにしているように、必ずしも言えない。一般的に使途認知されている作品以上に私小説のほうがその喚起力を発揮していることも少なくないのだ。私小説は、先にスナップ写真のよせ集めと指摘したが、写真のようにフラットである。私小説の「私」は、カメラやビデオのように、不在の視点になることを目指す。とるものはとられた写真には、セルフ・タイマーを用いなければ、存在しえない。例えば、ある写真に二人の人間が写っているとすれば、その写真の世界は写しているものを含めて三人によって構成されている。その不在の視点になるためには、固有名詞ではなく、任意の一存在でなければならない。個物を個物として確定する私小説家にとって、固有名詞は、境界症例の患者にとってそうであるように、邪魔なのだ。それゆえ、私小説は、ルポルタージュ的記述において、最も詩的喚起力が働く。それは曖昧さを詩的表現と勘違いしている作者による作品などのものとは比較にならない。そのような私小説家の禁欲的姿勢は、テーラー展開に美を見出し、「感興」する数学研究者もいるくらいなのだから、いい悪いは別にして、一つの才能であろう。葛西善蔵の作品では固有名詞は詩的イメージへの極めて重要な契機として登場している。正確さへのこだわりがイメージを喚起させることもあるのだ。私的な事実に固執すればするほど、書かれたものが私的なことを超えた多様な構造を持ってしまうのである。F市やK市ではなく、福島や鎌倉とすると、固有名詞の持つ強制力が働き、読み手に想像力を喚起せざるを得ないのだ。具体的な地名や歴史的出来事、著名人に対して、われわれはすでにあるイメージを抱いている。それを利用して、詩的表現を追及することは方法論として用いられてしかるべきである。正確さへの情熱は真への情熱ではない。それは感情を呼び起こす対象探求への情熱なのである。葛西善蔵は歴史的発展や社会的変動に関心を持っているわけではないが、彼の作品にはある緊張感が漂っており、それは具体的な地名への正確さへの情熱があるからである。葛西善蔵は、谷川俊太郎以上に、詩の本質に触れている。意味や解釈が排除され、「金魚」を恐れるような内的理由は説明されず、ただ外的事実だけが提示されているのだ。この記述は決して曖昧ではない。それは淡々として即物的な記述の転調として表われている。どうでもいい場面は丹念に描写しながら、肝心の場面で読み手を突き放す。こうした転調が詩の持つ喚起力の一つなのである。

 このように葛西善蔵の作品には心理や解釈、意味といったものが一切書かれていない。その代わりに、一見したところでは、どうでもいいと思われることだけが羅列されている。何も説明されることなく、外的事実だけが、記されているのである。その変遷し続ける視線において、対象は意味や解釈に覆われた現象としてではなく、イメージだけがさりげなく提示され、物自体がむき出しになってわれわれにの前にある。物自体は美や醜として表われる。私小説にも心理や解釈、意味はないが、すべては真の原理によって把握されているのである。山本健吉は、葛西善蔵の作品について、「自己を語るという告白文学ではなく、たえず自己と語る独白の文学である」、と言っている。葛西善蔵の作品は「告白」に属してはいないが、ドストエフスキーの『地下室の手記』は、表面的には、モノローグ形式がとられているけれども、ダイアローグ的であり、モノローグ的ではないように、「独白」であるとは必ずしも言えない。引用した文から明らかになることは、論理的であると言うよりは感覚的であるが、語ろうとする意志が過剰であるために思想的作業をとれずにいるということである。読み手に思い浮かぶのは彼の一つ一つの身振りなのだ。彼は対象を必死になって把握しようとしているが、それは絶えず変化していくものなので、さまざまな光景をその度に見つめるほかない。葛西善蔵は存在の変化・生成に柔軟についていくのである。それは興奮した子供によくある状態である。葛西善蔵はその子供のような状態でわれわれに語りかけているのだ。

 子供のような顔を持つ葛西善蔵は、『子をつれて』の中では、大人として自分の子供に次のように接している。

 で彼らは、電車の停留場近くのバーへ入った。子供らには寿司をあてがい、彼は酒を飲んだ。酒のほかには、今の彼に元気をつけてくれる何物もないような気がされた。彼は貪るわうに、また非常に尊いものかのように、一杯一杯味わいながら飲んだ。前の大きな鏡に映る蒼黒い、頬のこけた、眼の落ち凹んだ自分の顔を、他人のものかのように放心した気持で見やりながら、彼は延びた頭髪を左の手に撫であげ撫であげ、右の手に盃を動かしていた。そして何を考えることも、何を怖れるというようなことも、出来ないほど疲れている気持から、無意味な深い溜息ばかしが出て来るような気がされていた。

 「お父さん、僕エビフライ喰べようかな」

寿司を平らげてしまった長男は、自分で読んでは、こう並んでいる彼に言った。

 「よしよし、……エビフライ二−−」

 彼は給仕女の方に向いて、こう機械的に叫んだ。

 「お父さん、僕エダマメを喰べようかな」

 しばらくすると、長男はまた言った。

 「よしよし、……エダマメ二−−それからお銚子……」

 彼はやはり同じ調子で叫んだ。

 やがて食い立った子供らは外へ出て、鬼ごっこをし始めた。長女は時々扉のガラスに顔をつけて父の様子を視に来た。そして彼の飲んでるのを見て安心して、また笑いながら兄と遊んでいた。

 厭らしく化粧した踊り子がカチカチと拍子木をたたいて、その後から十六七ぐらいの女がガチャガチャ三味線を鳴らし唄をうたいながら入って来た。一人の酔払いが金をやった。手を振り腰を振りして、とがった狐のような顔を白く塗り立てたその踊り子は、時々変な斜視のような眼つきを見せて、扉と飲台との狭い間で踊った。

 葛西善蔵は彼の子供の内面をまったく書いていない。それを推測すらもしていないのだ。彼を子供たちがどう思っているのかはわからないのである。しかし、それが誰も意識することなく疲れて酔った顔でぼんやりとしている父と楽しく遊んでいる子供の無邪気さを『ど根性ガエル』の梅さんを含めたわれわれに訴え、胸を熱くさせる。父親がおろおろしていたのでは子供を不安にさせてしまう。父親は決して冷静さを失ってはいない。精神的強さとはこういうものだ。それに、カンパチと冷奴ではなく、エビフライとエダマメという寿司を喰べ終わった後の子供の選択もわれわれをノスタルジーにかり、泣かせる。子供の喰べた寿司にはマグロの赤身や玉子はあったが、コハダやヒラメは入ってはいなかった、そしてガリは残したであろうとわれわれは、思わず、想像してしまうのだ。ここは『小僧の神様』における寿司を「私」が小僧に食べさせる嫌味なシーンとは雲泥の差である。そこでは寿司はたんなる高級料理として描かれているにすぎず、寿司がまずそうに見える。今日のわれわれよりもはるかにいい素材の料理を食べていても、志賀直哉はおそらくひんぱんに寿司を食べていたにもかかわらず、漱石が『二百十日』でヱビス・ビールに言及していることを考慮すれば、寿司の味などまず理解していなかったことだろう。志賀直哉は、寿司だけでなく、夏ソバを食べても平気なほどの味覚音痴なのだ。寿司は高いからうまいのだという極めて盲目的な保守的理解に基づいているにすぎず、私小説家は、これだけ味覚に鈍感であることを考えれば、感覚的ではないことは明らかであろう。志賀直哉には自分でにぎった寿司で十分だと思わずにはいられない。『小僧の神様』は最も寿司を冒涜した作品として軽蔑しなければならないのだ。『子をつれて』は、日本近代文学において、当時の(理想的)父親像とは異なっていたかもしれないが、父親というものを最も描ききっている作品の一つである。

 このように反伝統的な作家であるにもかかわらず、葛西善蔵は、『弱者』において、自分自身を日本的な伝統的人間だと次のように言っている。

 「何が自分をこんなにまで無力にし、自分を弱らせたか。自分の病気、過度な飲酒−−それが大部分の原因をなしているとは思うが、むしろそれ以上に自分を弱らせているものの本体−−そう言ったものが、此頃稍明瞭に解りかけた。つまり自分は日本的な古伝統主義者であり、家族主義者であり、その亡霊が自分を脅かしていたのだ。その亡霊の苛責の前には自分は実に無抵抗的な弱者である。それが永年の間自分について廻り、生活的にも、芸術の上にも先刻話したような憂欝妄想狂たらしめたのだ」。

 この言葉はいささか意外であるように思われる。葛西善蔵が日本的伝統の「亡霊」に悩まされて生きていたとは見えないし、彼の作品にも自然主義文学の作品にある家制度との対決などは描かれていないどころか、むしろ、「亡霊」にとらわれない力強さに満ちている。しかしながら、自然主義文学が日本的な伝統や家族制度を否定することが主眼だったのに対して、彼はまったく別の価値を創出することが目標であったから、「亡霊」と衝突し、「憂欝妄想狂」たらしめられることになってしまったのである。それによって消耗されなかったならば、もっと作品を創造し得たかもしれない。だが、その「亡霊」をふりきれるほどの「力」は彼にはなかった。彼の作品にはそうした「力」への憧れに満ちている。換言するならば、葛西善蔵は「亡霊の苛責」によって「憂欝妄想狂」となったことから脱出することに文学的「力」を表わしているのだ。そんなものを問題にしない「力」がなく、そこで苦悶し、それに憧れ続けたのが葛西善蔵が葛西善蔵たる所以である。私小説家たちが、年齢を重ねるたびに、文学的「力」を発揮するのことについて、中上健次は、『老残の力』において、「現実や世界に対する老いによる不能」によって明視的な「力」を獲得しているからだ、と指摘している。書くことには現実や世界に対する「病者の光学」が必要である。と言うのも、書くことは「病者の光学によってより健康な概念と価値を見わたし、さらにはそれとは逆に、豊かな生命の充実と堅固さからデカダンス本能のひそかな作業を見下ろすこと」(ニーチェ『この人を見よ』)であるから。例えば、ロシアのボントルヤーギンは盲目の数学者であったが、彼は、健視者と比べて、イメージする能力にすぐれていた。健視者においては平面はイメージできても、立体になると、なかなかできない。ところが、ボントルヤーギンにとっては、その両者をイメージすることに、難易度において、違いはないのである。「病者の光学」が不可欠であるとしても、過剰な健康を持てあますことによってそれを獲得した坂口安吾や梶井基次郎らのようなケースは、日本文学においては稀である。それゆえ、書くには健康ではなく、実際的な病気や老いが必要なのだ。けれども、「老残」という「病者の光学」が与えるものは「力」ではない。それは技にすぎないのである。人は老いていくにつれ、「力」は失われ、その代わりに技を身につけていく。私小説には「力」ではなく、ただ技だけが眼につく。「力」でおしきられた(漱石の『坊っちゃん』のような)作品は、私小説には、皆無である。「力」は、言うまでもなく、技を制する。デビュー時からまったく発展しなかった葛西善蔵は、その意味でも、伝統的私小説家ではない。彼の作品は「力」に貫かれている。近代小説は読み手の共感という普遍化をもたらす装置、すなわちシンボル的思考に基づいている。書き手は自らの特殊な経験を書いて、読者はそれを読んで、あたかも自分のことのように追体験する。私小説もこの共感によって成り立っている。共感には「力」は不要である。近代小説以前の作品では共感することなく、ただ楽しまれていた。例えば、夏目漱石は『坊っちゃん』を書いたが、当時の読者は主人公の坊っちゃんに共感して読んでいたわけではない。彼らはその破天荒な行動をただ楽しんでいたのである。柳田国男は、私小説などを含む近代小説が登場したとき、普通の平凡な人間が主人公になっていることに驚きを覚えた、と回想している。私小説家は誰もが持っているが、あたりまえだからただ言わないだけのことを書いているように、あるのはただ誰もが持っている自意識だけであり、本人とって自分自身に対する「距離」の意識が特異であるという自己意識が彼らの出発点なのである。「距離」の特異性は自らに対する懐疑の不在がもたらされている。葛西善蔵の作品も、他の私小説と同様、ほとんどがありふれていることばかりが書かれており、先に論じたように、ただ対象との「距離」だけが独特なのだ。しかし、その「距離」は、私小説の場合とは違って、「力」で押す葛西善蔵は余裕に溢れて、とっている。

 葛西善蔵は、一九一五年四月二十五日付船木重雄宛書簡において、芸術は「楽しい犠牲」だと次のように書いている。

 芸術は僕の生活であり、宗教であり、心の糧であり、絶対の権威である。その為めならば、僕は自分として出来るだけの犠牲を惜しまない。いや、犠牲ではない。犠牲という言葉では当らない。犠牲という言葉を仮りに用うるとしても、苦しい犠牲ではなくて楽しい犠牲である。

 彼は芸術にいかなる「犠牲をも惜しまない」。しかし、それは「楽しい犠牲」であって、「苦しい犠牲」ではない。つまり、葛西善蔵は快楽主義者なのである。人は快楽を求める。そして、それは正当なことである。しかし、苦痛に耐えることや苦痛を否定することによっては、真に快楽を得ることはできない。子供のように、苦痛を苦痛と思うことなく、苦痛を忘却して、快楽を求めることこそ望ましい。苦痛にとらわれることなく、快楽を求める必要があるのだ。享楽主義者と呼ばれているものたちにはこの認識が欠けている。彼らは苦痛を否定しているにすぎない。文学や芸術は快楽をもたらすものである。それは苦痛を苦痛と思わせず快楽を感受させるのだ。それは子供において体現されているものなのである。葛西善蔵にとっては、楽しくなければ芸術ではないのだが、私小説家は苦しくなければ芸術ではないと主張している、すなわち芸術を強制労働の苦役にしてしまっているのである。芸術を創造するのに最も必要なのは忍耐力というわけだ。私小説家には快楽主義的姿勢はなく、禁欲主義的で、悲観的である。彼らは幸福になることがあたかも罪悪であるかのように不幸だけを、他人の不幸ほど笑えるものはないにもかかわらず、書きたがる。しかし、芸術は、酒を飲むのや子供と遊ぶこと同様に、楽しいものなのだ。芸術は、本来、子供のやることをいい大人がやっているものなのである。それは「夢の続き」(大下弘『日記』)と言ってもいいだろう。だからこそ、私小説家は否定するが、芸術作品は商品であり、エンターテインメントになるのだ。

 芸術に「楽しい犠牲」を「惜しまない」が、しかし葛西善蔵は、『子をつれて』において、子供を犠牲にすることはしたくないと次のように書いている。

 ポカンと眼を開けて無意味に踊り子の厭らしい踊りに見とれていた彼は、彼らの出て行く後姿を見やりながら、こうまた自分に呟いたのだ。そして、「自分の子供らも結局あの踊り子のような運命になるのではないか知らん?」と思うと、彼の頭にも、そうした幻影が悲しいものに描かれて、彼は小さな二女ひとり伴れて帰ったきり音沙汰のない彼の妻を、憎い女だと思わずにいられなかった。

 「しかし、要するに、皆な自分の腑甲斐ないところから来たのだ。彼女は女だ。そしてまた、自分が嬶や子供のために自分を殺す気になれないと同じように、彼女だってまた亭主や子供のために乾干しになるということは出来ないのだ」彼はまたこうも思い返した。……

 「お父さんもう行きましょうよ」

 「もう飽きた?」

 「飽きちゃった……」

 幾度か子供に催促されれて、彼はようよう腰をおこして、好い加減に酔って、バーを出て電車に乗った。

 「どこへ行くの?」

 「僕の知っている下宿へ」

 「下宿? そう……」

 子供らは不安そうに、電車の中で幾度か訊いた。

 渋谷の終点で電車を下りて、例の砂利を敷いた坂路を、三人はKの下宿へと歩いて行った。そこの主人も主婦さんも彼の顔は知っていた。

 彼は帳場に上り込んで「実は妻が田舎に病人が出来て帰ってるもんだから、二三日置いてもらいたい」と頼んだ。が、主人は、彼らの様子の尋常でなさそうなのを看て取って、暑中休暇で室も明いているだろうのに、空間がないと言ってきっぱりと断った。しかしもう時間は十時を過ぎていた。で彼は今夜一晩だけもと言って頼んでいると、それを先刻から傍に座って聴いていた彼の長女が、急に顔へ手を当ててシクシク泣き出し始めた。それには年老いた主人主婦も当惑して「それでは今晩一晩だけだったら都合しましょう」ということにきまったが、しかし彼の長女は泣きやまない。

 「ね、いいでしょう? それでは今晩だけここにおりますからね。明日別のところへ行きますからね、いいでしょう? 泣くんじゃありません……」

 しかし彼女は、ますますしゃくりあげた。

 「それではどうしても出たいの? よそへ行くの? もう遅いんですよ……」

 こう言うと、長女は初めて納得したようにうなずいた。

 で三人はまた、彼らの住んでいた街の方へと引き返すべく、十一時近くになって、電車に乗ったのであった。その辺の附近の安宿に行くほか、どこと言って指して行く知合いの家もないのであった。子供らは腰掛けへ座るなり互いの肩をもたせ合って、疲れた鼾を掻き始めた。

 湿っぽい夜更けの風の気持よく吹いて来る暗い濠端を、客の少い電車が、はやい速力ではしった。生存が出来なくなるぞ! こう言ったKの顔、警部の顔−−しかし実際それがそれほど大したことなんだろうか?

 「……が、子供らまでも自分の巻添えにするということは?」

 そうだ! それは確かに怖ろしいことに違いない!

 が今はただ、彼の頭も身体も、彼の子供と同じように、休息を欲した。

 急に泣き出した長女に、志賀直哉ならば癇癪を起こすところであるが、葛西善蔵は泣く理由を尋ねることなく、辛抱強く語りかけ−−子供を育てる際に、いかなる領域においても、大切な姿勢である−−、結局、子供に従うことにしている。「子をつれて」いるのではなく、彼が子につれられているのである。彼は自分のこと以上にまず子供のことを考えている。彼にとって、唯一悲観的な気がかりは自分の子供の将来だけである。彼の思いはあまりに常識的な親の心配であろう。葛西善蔵は、私小説家と違って、常識に通じた人間であるが、その存在感において常識と一線を画している。私小説家が適当な「距離」をとれず、知性を働かせられないのは、彼らに常識が欠如しているからである。現実には常識以上に非常識がまかり通ることも少なくないのであって、常識をおし通そうとすることは非常識であるのだから。処世術としての人間関係には疎かったが、常識を身につけた葛西善蔵は、具体的な対他関係に応じて、必ずしも意識的ではなかったけれども、その顔を変えている。一方、私小説においてその中心の人物は誰に対しても精神的態度が変化せず、具体的な関係性に関する認識が乏しい。私小説家は自分の子供のことなど考えない。彼らに関心のあるのはただ気分だけなのである。

 嘉村磯多は、『崖の下』において、子供を自分の世界の気分を脅かす「侵入者」だと次のように書いている。

 圭一郎は子供にきつくてやさしみに欠けた日のことをはしなくも思い返さないではいられなかった。彼は一面では全く子供と敵対の状態でもあった。幼少の時から偏頗な母の愛情の下に育ち不可思議な呪いの中に互いに憎み合って来た、そうした母性愛を知らない圭一郎が丁年にも達しない時分に二歳年上の妻と有無なく結婚したのは、ただただ可愛がられたい、やさしくしてもらいたいのやみがたい求愛の一念からだった。妻は、予期通り彼を嬰児のように庇いいたわってくれたのだが、しかし、子供がこの世に現われて来て妻の腕に抱かれて愛撫されるのを見た時、自分への籠は根こそぎ子供に奪い去られたことを知り、彼の寂しさは較ぶるものがなかった。圭一郎は恚って、この侵入者をそっと毒殺してしまおうとまで思いつめたことも一度や二度ではなかった。

 これだけ暗い父親を探すのもなかなか骨の折れるところであるが、おそらく子供を「毒殺」する前に、愛というものをまったく知らないこんな父親の下に生まれた子供に同情し、妻が呆れて実家に戻ってしまうほうが先であるように思われる。女性たちが嘉村磯多と別れてからすっかり彼のことを忘れて、みんな楽しく生きられるのも当然である。もっとも嘉村磯多自身は彼女たちが依然として自分のことを思っていると信じこんでいたようだが、どうしてこんなに自分自身を高く見つもるのか理解に苦しむけれども、もしかしたらこれは冗談ではないのかとわれわれは考えたほうがよいかもしれない。そういう視点から嘉村磯多の作品を読むと、確かに、いかなる読み方をしても志賀直哉の作品は不愉快になるが、これほど笑えるものも少なく、志村けんあたりも評価するであろうほどなかなか傑作のギャグ・コントである。伊藤整や平野謙はこうした嘉村磯多が作家の持つ出世欲や権力欲を自己暴露することで文壇や革命組織のタブーに挑戦したと認識していたが、例えば、今日の性風俗における、いわゆるマニア誌では、人妻・熟女本に最もタブーが少ないのであって、彼はたんに人間関係を均質にしかとらえられないだけなのである。子供というものの地位が私小説と葛西善蔵の作品とでは大きく違うことがこれで明らかだろう。子供に焦点にあてることでその作品を構成している世界をほぼ理解できる。「子をつれて」歩きまわるということがその両者の差異を極めて象徴的に表わしている。なるほどどちらも世界が狭いことには違いはないが、嘉村磯多の作品はペシミスティックで暗いのに対して、葛西善蔵の作品はオプティミスティックで明るい。借金を返せず、下宿を追い出されてしまうような人物に意志があるということには議論の余地があろう。彼はつねにイージー・ゴーイングであり、失敗したらそのとき考えよう、そのうち何とかなるだろうと悲観することがない。精神的に疲労してくると、人は悲観的になる。楽観的になるためには「力」が必要なのである。人を笑わせることは大変なことだ。それは泣いた赤ん坊をあやして笑わせてみようとすればわかるだろう。逆に、赤ん坊を泣かすのは簡単なことだ。大声をはりあげて怒ればよいのだから。楽観的になるには意欲的に生きる姿勢を保持しなければならない。つまり、楽観主義と悲観主義ではそれを支えているものがまったく異なっているのである。

 アランは、「誓うべし」(『幸福論』所収)において、楽観主義と悲観主義について次のように述べている。

 悲観主義は気分のものであり、楽観主義は意志のものである。およそ成行にまかせる人間は気分がめいりがちなものだ。いや、それだけでは言いたりない。やがて苛立ち、憤怒に駆られる。子供の遊びに規律がないと、喧嘩になってしまうようなものだ。そして、この場合、自分で自分を責めさいなむ常軌を逸した力以外に原因はない。実際には、上機嫌などというものはありはしない。正確にいえば、気分というものは、いつも不機嫌なものだ。そして、あらゆる幸福は、意志と抑制のものである。どんな場合でも、理屈は奴隷である。気分というものは、途方もない体系を組み立てる。そしてその拡大したものが狂人たちにみられる。被害をうけていると思いこんでいる不幸な人間の言動には、いつでも本当らしさと雄弁さとがある。楽観主義の雄弁は心を静める種類のものである。これはただ、おしゃべりな憤激とのみ対立する。この雄弁は苛立ちを緩和する。実際に力を発揮するのは語調であって、ことばは鼻歌ほどにも意味がない。不機嫌につきものの犬のような唸り声は、なにをさしおいても改めなければならぬ。これはわれわれの内部の確かな病気であって。われわれの外部のあらゆる種類の害悪を生み出すからだ。だからこそ、礼儀は政治のよい規則なのである。礼儀と政治という二つのことばは親類なのだ。礼儀正しい者は政治家であるわけだ。

 これについては、不眠を見ればわかる。そして、生きていることそれ自体が耐えがたいと思われるような、この奇妙な状態のことは、だれでも知っている。この点、もっと立ち入って考えてみることが必要だ。自制というものは、生存の一部をなしている。いや、生存を組み立て、生存を保証している、といった方がいい。なによりもまず行動によって、材木をのこぎりで挽けば、夢想などはたやすくいい方向に向かう。猟犬の群が喧嘩をはじめるのは、獲物を狩り出しているときではない。それゆえ、思考の病気に対するなによりの療法は、のこぎりで材木を挽くことである。しかし、はっきり目覚めた思考は、すでにそれ自身が心を落ち着かせるものだ。それはえらぶことによって遠ざける。さて、こんどの不眠症の場合だが、不眠症とは、眠りたいと思い、自分自身に対して身動きもせず、選択もするなと命令することである。こういう抑制を欠いた状態では、たちまち運動と観念とがいっしょになって、機械的な進行をはじめる。犬どもの喧嘩だ。あらゆる運動が痙攣的であり、あらゆる観念にとげがある。こういうときには、無二の親友でも疑う。あらゆる徴候はわるく解釈される。自分自身が滑稽で、愚かにみえる。こういう見かけはなかなか強いもので、材木を挽くどころの話ではない。

 ここから、楽観主義は誓いを要求することが、よくわかる。はじめはどんなに奇妙に見えようとも、幸福たることを誓わねばならぬ。主人の鞭で、犬の叫び声を制止しなければならない。最後に、用心のために、すべての憂欝な考えを欺瞞的なものと見なさなければならない。なにもしないでいると、たちまち、自然と不幸をつくることになるから、そうすることが必要なのだ。たいくつがなによりの証拠である。しかしねわれわれの観念がそれ自体はとげをもってはいないこと、われわれを苛立たせるのはわれわれ自身の心の乱れであることを、もっともよく示すのは、肉体のすべてが緊張をほぐされているあの幸福な居眠りの状態である。これは長くは続かない。睡眠は、こういうぐあいに予告されると、間もなくやってくる。この場合、自然力を助けうる眠りの法は、主として、中途半端にものを考えようとしないことにある。考えることに全身をうちこむか、それとも、抑制されない考えはすべて虚偽であるという経験から、全然身を入れないか、どちかだ。この思いきった判断が、抑制されない考えをすべて夢の位置にまで引きおろし、少しもとげのない幸福な夢を準備してくれる。反対に、夢判断でいう夢を解く鍵は、なにごとをも重大視する。それは不幸の鍵である。

 私小説は、気分に基づいているため、悲観的とならざるを得ない。気分はハリウッドの映画俳優の結婚と同じくらいにいい加減なものだ。志賀直哉や嘉村磯多などの私小説家は「子供の遊びに規律がないと、喧嘩になってしまうようなもの」を書いている。彼らの作品は読み手に幸福感を与えない。それどころか、読み手は「私にそんなこと言われても困るよ」と不快になってしまう。ブルーになるために金を出して本を買うおめでたい馬鹿などいるはずもいないのに、彼らは自分はこう思うということだけを書き、読み手を楽しませるという意識がない。そこで「力を発揮するのは語調であって、ことばは鼻歌ほどにも意味がない」のである。私小説家に欠けているのは意欲なのだ。私小説には新陳代謝がなく、老化現象だけが描かれているにすぎない。私小説家はかたいものや脂っこいもの、刺激の強い食べ物は消化することができないのである。おそらく彼らは胃腸が弱いのだ。悲観主義のあり方は極めて無難で、精神の闘いがない。悲観主義は弱者の生き方であり、楽観主義は強者の生き方である。私小説が受けいれられるのは、弱者のルサンチマンに「共感」されるからなのだ。「心境小説」と「破滅型の私小説」という区別ではなく、悲観主義的であるか、それとも楽観主義的であるのかという観点から、すなわち気分の原理によって、それとも意志の原理によって構成されているのかという視点からの作品読解こそが望ましい。子供は決して悲観的ではない。健康な精神を宿している子供にとって、私小説は理解できないのである。私小説の悲観的な言葉は、子供には、狂人のたわごとにしか聞こえないのだ。子供はどこまでも楽観的であり、生きる意欲に満ち溢れている。子供「雄弁」であるが、それは「心を静める種類のもの」なのである子供には苦難が待ち構えているが、意欲という「力」によって支えられているため、いかなる精神的闘いをも厭わないので、それを苦難とは考えない。その意志を保持しようと意志するとき、人は幸福を求める。子供は幸福になろうと欲する。「生きていることそれ自体が耐えがたい」とは思わない。子供は、それゆえ、誓いを立てるのである。子供は、三浦雅士が寺山修司論において言うように、親の庇護のもとにあり、自立してはいないことは、古代ギリシアの自然哲学が奴隷制に支えられた経済的発達によるスコレーなくしてはありえなかったように、確かだろう。だが、子供の精神は、その肉体と同様、健康であり、丈夫である。それは成熟と呼ぶにふさわしい。成熟と自立はまったく別の問題なのだ。日本文学の問題点の一つはこの成熟と自立の混同があげられる。しかし、自立などということはありえない。と言うのも、すべての事物はそれぞれが孤立してあることなどありえず、さまざまに関連しているからである。日本文学はまったくありもしない妄想の、虚無の、錯覚の問題を論じてきたのだ。自立という観点から論ずるならば、葛西善蔵も志賀直哉も違いはない。けれども、成熟という観点から考えるならば、両者は月とすっぽんであろう。私小説家は子供じみているが、葛西善蔵は「子供と同じように」生きている存在である。だからこそ、あの生き方を誰もが許せたのだ。彼は周囲の人間を納得させ、幸福感を与えたのである。葛西善蔵は自分の子供といるときには、父になり、大人といると、子供になるのだ。どんなに絶望的な状況になろうとも、葛西善蔵は「抑制」し、泣くことも憤ることもない。明日は明日の風が吹くと楽観的に明日を待つだけなのだ。「生存が出来なくなるぞ!」と言われて、「しかし実際それがそれほど大したことなんだろうか?」と葛西善蔵が自答するのは、「自制というものは、生存の一部をなしている。いや、生存を組み立て、生存を保証している、といった方がいい」からである。彼は、「子供と同じように」、「中途半端にものを考えよう」とせず、「居眠り」をするのだ。他方、「被害をうけていると思いこんでいる不幸な人間」である私小説家は、志賀直哉の『流行感冒』を読めばわかるように、気分によって組み立てられた「途方もない体系」である差別を平然と行う。彼らの作品を支えているものは差別なのである。日本文学はそうした差別主義者を崇めているのだ。日本人が差別に対して鈍感であり、いかに差別を是認しているかがそれから明らかであろう。日本人は健康や丈夫、成熟というものを理解する能力がないのである。日本人は「自分自身に対して身動きもせず、選択もするなと命令」し、「たちまち運動と観念とがいっしょになって、機械的な進行をはじめる」。志賀直哉が断じて否定されなければならないのは、そうした日本人の意にそったからなのだ。志賀直哉の『和解』などに感動した小林秀雄などはいかに未熟者であるか呆れてしまうほどだろう。差別があるかぎり、私小説は滅びることなどないのである。われわれが私小説を読む必要があるのは、差別がいかなるものであり、それがどのようになされているかを知るためなのだ。葛西善蔵の作品を、私小説と違って、幸福感を味わうために、意志は「力」であることを体験するために、肯定的にわれわれは読む。葛西善蔵は、「子供と同じように」、幸福になるために「誓う」のである。彼の作品は「誓い」の表われにほかならないのだ。

 機会が少ないわりに、そういう葛西善蔵に関する研究は充実している。差別糾弾闘争の闘士で、息子に人間平等主義の意味をこめて等と名づけた植木徹誠を「夢を食いつづけた男」と命名した偉大なあの植木等が「そのうちなんとかなるだろう」と生真面目な戦前派のひんしゅくをかいながら無責任に哄笑した時代から十年後、ザ・ドリフターズが子供から圧倒的な支持をえつつも、親たちからは低俗と罵られていた七十年代中ごらに、彼に関する三種の全集が刊行されて以来、作家論や人物論だけでなく、作品論や文体論など多岐に渡り、テリーヌに使われた食材を言いあてるがごとく詳細な読解も少なくない。親たちはかつて手塚治虫の作品を教育上好ましくないとして非難していた。こうした認定は、むしろ、芸術的であることを意味しているのだ。芸術を、『経験としての芸術』において、「比類のない教育機関」と見なすジョン・デューイと違って、芸術的であることと教育的であることが相反すると考えている親たちの意見は、いつも子供に対する教育をロクにしもしないことから表われているのである。親たちは葛西善蔵の作品から教育を学ぶ必要があろう。そもそもザ・ドリフターズへの非難にしても、あまりに、親たちは文学的に無知この上なかった。ザ・ドリフターズの通夜のコントの一つは、ジェイムズ・ジョイスの”Finegans Wake"の源になったアイルランドの"Finegan's Wake"という俗謡をモチーフにしている。これはあの品のいい、ユーモアの天才いかりや長介の方向性だったろう。彼は、間違いなく、歴史に残るコメディアンである。ザ・ドリフターズのコントはジェイムズ・ジョイスの『ユリシーズ』と『フィネガンズ・ウェイク』を完璧に具現している。世界中の人々は、ジョイスを偉大だと思うのなら、ザ・ドリフターズのコントを称賛しなければならない。葛西善蔵に対する批判には、彼は詩的才能に恵まれていたが、社会や歴史に背を向け、自分の世界に閉じこもっていたという基本的なパターンがある。これは、彼の「楽しい犠牲」という認識とあわせて考えると、彼がエピクロス主義者であることを告げているわけだが、葛西善蔵は社会や歴史に無関心だったのではない。先に述べたように、彼は社会の調和と個人の生の幸福感には断絶があり、いかなる不幸な時代や社会に生まれたとしても、充実して生きることを第一の課題と考えたのである。葛西善蔵は、エピクロスと言うよりも、その哲学的祖先であり、「言葉は行為の影である」と述べ、「狼狽のなさ」を行為の目的としたデモクリトスに近い。「ペルシア王の王位を得るよりも、一つの法則の説明を見つけたいものだ」とうそぶいたデモクリトスによれば、人生の「目的」は「愉快」であり、「人生をできる限り多く楽しみ、できる限り少く苦しんで送ることである」。なぜならば、「人の慣わしで甘さ、人の慣わしで辛さ、人の慣わしで温さ、人の慣わしで冷さ、人の慣わしで色。しかし真実にはアトムと空虚」だからなのである。

 竹田青嗣は、『自分を知るための哲学入門』において、デモクリトスの倫理を次のように要約している。

 さまざまな物欲に悩まされることなく自分の現在に満足せよ。惨めな人々の生活を観察して彼等の苦しみをよく考えるがいい。そのことは、いっそう多くを望んで他人を羨んだり妬んだりしないために必要なことだ。知恵こそが幸福の条件である。不正をしないことではなく、それを欲しさえしないということが大事だ。他の人々に対してではなく自分自身に恥じることを学べ。よいこと、悪いことに関して自分自身に対してはばかり、このことが魂に対する法律として定められるようにせよ……。

 これを先の葛西善蔵からの引用と照らし合わせてみると、葛西善蔵の倫理がデモクリトス的であることがわかるだろう。マルクスは、『経済学批判序説』で、古代ギリシア人を「正常な子供」と呼んだが、葛西善蔵を「子供」と表わす研究は多いけれども、それらは古代ギリシア思想の意義を理解していないし、また子供に関する哲学がまったく誤っているのだから、話にならない。彼らの「子供」は現に生きていることへの疲労感のもたらす退行もしくはそうした態度に対するアイロニーというロマン主義的理解にとどまっている。子供であることはアルケーを知り、一つの全体性として世界を知るように意欲することなのである。

 葛西善蔵の作品は、志賀直哉の私小説と違って、解析学的図式に基づいていない。彼の作品の「私」は、私小説の「距離」の不安定さはその任意性にあるわけだが、任意の点ではないのだ。意志は、気分とは異なり、「私」を離れて働かない。意志は気分のような作用する主体ではないのだ。私小説は、その題材は別として、抽象的な世界を具現しているのである。例えば、その「私」は、ニュートン力学の法則に物体のすべての質量が集まっている大きさのない一点という意味の「質点」という言葉が用いられているが、「質点」のようなものなのだ。ニュートンは、地球と月の間に働く引力を計算するときに、地球と月の「距離」を規定する際、地球の中心にその質量を集め、月の中心に月の質量を集め、それぞれの中心の間の「距離」を万有引力の法則に導入することにしたのである。一方、葛西善蔵の作品の世界は具体的な世界なのだ。それは「幾何の発想」(矢野健太郎)である。葛西善蔵の人物は世界と一体化することはありえないのである。と言うよりも、葛西善蔵は世界との一体感に関心を払っていないのだ。古代ギリシア数学は個々の問題に対する個別的な対処方から普遍的な論証へと向かう。古代ギリシア人は、例えば、三対四対五の比率の辺で構成された三角形は直角三角形であるという経験的知識からピタゴラスの定理へと論証するのである。しかし、それは近代認識論の前提である記号化ではない。記号化されていないから主観と客観は分裂していないのである。分裂していなければ、「私」は世界と融和・同化する必要はない。葛西善蔵の「私」は、言ってみれば、経験的に得られた三角形に関する知識である。彼の作品は、常識という定理や公理を用いて、幾何学の証明問題である。古代ギリシアの自然科学は常識の世界であった。アインシュタインなどの光に近い速度で起こり得ることを思考することは「常識はずれの世界」(竹内均)の話である。「常識はずれ」の場合には「常識はずれ」が常識なのだ。彼の作品は、先に述べたように、美や善の原理に基づいている。彼の作品にある真の原理は近代認識論的な真ではない。だから、それは真と離れているかのように見えるのである。例えば、凸レンズの焦点「距離」よりも近くにある対象は実像をつくれず、虚像をつくってしまうが、カメラのフィルムに写る像は実像であるけれども、鏡の像は虚像なのである。実際、光の現象は、物理学において、厄介な問題だった。それを説明するのにサラセン人アルハーゼンが光の反射の研究をしたのを皮切りに、ホイヘンスの波動説・エーテル仮説とニュートンの粒子説の論争からはるかアインシュタインの相対性理論の登場にまで及んだのである。と言うのも、観察や実験をしたそれを確認する際に見るための眼という身体の器官が光の現象に規定されていたからなのだ。葛西善蔵の原理は鏡に映った虚像も真であるとする発想なのだ。葛西善蔵の作品の中で中心的人物は「不快」から「調和的気分」への移行といったような変化をたどらない。作品が終りを迎えても、主人公につきつけられた問題はまったく解決しないのである。ただ彼は、楽観的に構えて、未来に向かうだけなのだ。楽観的にあるには自分自身を笑い飛ばす「力」が不可欠である。その「力」に自己を突き放すことによってそこに「距離」が生まれる。それは腕の長さより少し長い程度の適切な「距離」である。遠すぎもせず、一歩踏み出せば届くほどの肉感的「距離」なのだ。ボクシングやレスリングといった格闘スポーツで相手をうかがう「距離」と言ってもよいだろう−−芸術に限らず、スポーツにおいては。さらに「距離」は、そこでうまくプレーするには、重要な要素の一つである。それは憧れの対象を前にはにかんでいる子供の「距離」でもあるのだ。悲劇と呼ぶには彼の作品はあまりに穏やかなエンディングをしている。彼は過去を想起し、それによって現在を解釈する。過去と現在の差異が彼をそうさせるのである。ニュートン力学は作用=反作用の図式を前提としているが、アルキメデスの力学は比に基づいている。過去と現在は、比によって、把握されるのだ。そして、中心的人物とそれ以外の人物は、時間的・空間的差異の対比を基盤にして、秩序づけられている。それらはアトムなのである。「アトムは」、デモクリトスによると、「あらゆる種類の形状、外観、サイズをもっている。平らでないもの、鈎形のもの、凹形のもの、凸形のもの、数えきれない変形をもったものがある」。手塚治虫の『鉄腕アトム』の名前の由来であり、ファインマンが後世に残すべき唯一の理論とまで絶賛したこのアトム論では、意識的にデモクリトスから借用したものであったが、ジョン・ドルトンの原子説やアボガドロの分子説とは異なり、デモクリトスは気体はすべて空気と考えていた。ドゥルーズ=ガタリは、『アンチ・エディプス』において、「モル(グラム分子)的なもの」と「モレキュール(分子)的なもの」という区別を立てて現代社会を精神分析したが、どちらもあくまで近代認識論的図式の一つである定量化を前提にしているのであり、アトムではない。マッハは「原子が存在するとは私には信じられない。実測された量の間の関係を教える法則さえ分かっていれば、何も空想的な微小の世界について考えることは無意味である。原子論は、法則の理解を助ける記号のようなものにすぎない」と、すでに力学的に熱量を測定するための微分方程式があることを理由に、気体分子運動論に反対したのに対して、ボルツマンは「微分方程式で原子論の厄払いができたと思い込むような人は、樹を見て森を見ない人だ」と反論し、それを「平均」や「確率」などという統計的手法によって把握できると考えたのである。そして、そのボルツマンの協力者マックスウェルが。気体分子運動論を用いて、今日まで実際にはありえていない「マックスウェルの魔物」を考案することになる。アトムの結合・分離により、一切が生成・消滅し、事物の持つ性質もアトムの結合・分離によって生じる。アトムの結合・分離は他からの原動力の作用によって起こされるのではなく、自然的な必然の法則に基づくアトム自身の運動によって起こされるのだ。葛西善蔵は、「無感興」を「悪」とし、それよりは「悪い感興」にでも「活きなけれはならぬ」がと考えているように、「無」を否定的に扱うのは、ディオゲネス・ラエルティオスの『ギリシア哲学者列伝』の伝えるデモクリトスの言葉によれば、「何ものも無からは創造されず、また何ものも破壊されて無に帰することはありえない」からである。葛西善蔵の作品は、表現されないものを寓話的に暗示する「力」、比較的豊かな色彩感、人間性の豊饒さ、洗練さとはほど遠い隙間だらけの描写、ノスタルジーを感じさせ、どこか優雅ですらあるニュアンスを含んだ言葉の選択、寄席と言うよりもギャグ・コントを思わせるようなユーモア、対他関係による世界の規定といった特徴を持っているのである。彼の作品は機械論的世界観を示している。葛西善蔵は現象界における性質上の差異をアルケーとしたのである。葛西善蔵は、デモクリトスと同様に、多元論者なのだ。「デモクリトスは、物は現在において生じたのとまったく同じ仕方で過去においても生じたという事実にもとづき、彼の自然に関する因果の理論を立てる」(アリストテレス『自然学』)。だからと言って、葛西善蔵の作品が古代ギリシアの文学に相当するわけではない。それは、古代ギリシアの文学の中心的人物が英雄的であったということからも、明らかであろう。エディプスが「哀れな父」であろうはずもない。過剰な悲観主義は、仲本工事の肉体をとことん痛めつける一人コントや(コメディアンでありながら、人を笑わすことに何の意義も快楽も見出していない)高木ブーの陰湿さとマゾヒスティックに戯れているコントが示しているように、おかしさを覚えるが、それはやはり不健康であり、古代ギリシア人は楽観的に、思考し、悲観的な態度をとることがなかったことは、葛西善蔵の楽観的な幸福に関する認識に通じている。

 その幸福は、葛西善蔵は、『悪魔』において、「どん底」に落ちきってしまって新たに高貴なものを生み出そうとする意欲だと次のように述べている。

 俺達は自分自身を食い尽くして、初めて真剣に他に鋒を向ける権利と強味が出来るのだ。滅びよ! 新しく生きるんだ。俺達は決して生活なんと云うことを苦にしてはいけない。俺達がいよいよ食えなくなる、と、そこにより以上の生活の道がちゃアんと開かれて待って居るんだ。それが事実と云うものだ、わかり切った事なのだ。俺達はどん底に落込んで初めて最貴最高の生命を呼吸することが出来るのだ。それは決して空想と云うものではない。真理だ。

 葛西善蔵は、志賀直哉と違って、解析学的解答に満足しない。そうするくらいなら、「どん底」に落込むことをも厭わないのだ。この「真理」はデカダンスである。こうした見解は坂口安吾の『堕落論』を予感させる。デカダンスは生が増大しようとする際、引き起こされる必然的結果である。葛西善蔵は新たな価値を創造せんと、作品において、彼の創造した人物はデカダンスによって、新たな価値を創造しようとさまよい歩く。ただ滅びるのではなく、よりよく滅びることが新たな価値を生み出す。それは滅亡を通して新生するというロマン主義的ヴィジョンを意味しない。夢を見て、その確かな即物的な夢の感触に触れてしまい、そこで歓喜と恐怖に身を引き裂かれそうになってしまった子供の痛切な「真理」なのだ。子供は失われつつあるものとしてしか、デカダンスとしてしか生きることができないのである。「真理の標識は力感情の上昇のうちにある」(ニーチェ『権力への意志』五三四)。つまり、葛西善蔵の作品には子供のデカダンスが体現されているのだ。それは十歳くらいになると消えてしまうものである。子供は既存の価値ではなく、自ら価値を創造する。ところが、十歳くらいになると、子供は価値を創造することをやめ、既存の価値に従属するようになってしまう。ウラジミール・ナボコフは、『ロリータ』の中で、「九歳」から「十四歳」までの「小悪魔的」少女を「ニンフェット」と呼んでいるが、子供のデカダンスは「ニンフェット」にはもはやない。コスモロジーを持たない「ニンフェット」にあるのは大人へと向かう初歩的な受動的デカダンスなのだ。子供は宝石以上にガラス球のほうを愛する。それはアイロニーからそうするのではない。宝石というものが既存の価値によって支えられているからである。しかも、子供は、古代ギリシア人が水の蒸発や雨からコスモロジーを構築したように、ガラス球をただ愛するのではなく、そこにコスモロジーを想像する。子供はガラス球を眺めながら、これはもしかすると魔法の石なのかもしれないというように思いをめぐらすのだ。子供は生命活動の中で生きることをつかもうとするのである。子供は、カントの「理性の本性」さながら、納得のいく説明のあるまで推測することをやめず、大人以上にはるかに理論的であり、工夫して生きているのだ。大人のおしつけには二律背反で返答する子供には生きられた「純粋理性批判」の側面がある。大人の孤独はわびしさが漂うが、学校帰りに一人でルールを決めて遊びながら帰っていく子供の孤独な姿はデカダンスである。この子供の持つ絶対的な孤独を眼にしたとき、目頭が熱くなると同時に慰められるものは成熟している。子供が、不注意で、アイスクリームを落としてしまい、その泥や砂のついたアイスクリームを持ったまま、全力で駆け出し、この世の終りのごとく、真剣に泣き叫ぶような姿に、大人において、われわれが直面することはおそらくない。われわれは生きることをより子供に、その「真理」に負う必要がある。子供のデカダンスによって生きた葛西善蔵は、日本では、極めて貴重な存在である。志賀直哉や嘉村磯多の子供になるのは、すぐ怒るし陰険だから、嫌だけど、葛西善蔵の子供は、ちょっと頼りないけれど楽しいだろうから、なってもいいなと思う子供も少なくないだろう。葛西善蔵は父が死んだ時代の父である。葛西善蔵に対して、この人はいったいこの先どうなっていくんだろうという考えが浮かんでも、心配などせずに、これだけ明るいんだから、なんとかなるだろうと期待して、将来を楽しみに待っていられるのである。「次にこの作者はどういうことを書くんだろうと期待する」のは「読者」だけではない。たとえ早死にすることになったとしても、あの人も十分楽しんで生きたんだからよかったじゃないかと笑い話になるのだ。葛西善蔵の『子をつれて』があるのに、志賀直哉の『暗夜行路』を先に読もうとする連中は、まったく大人気ない、甘ったれていると軽蔑されてしかるべきである。なぜなら、そうした姿勢はあたかも一番好きな食べ物としてエビフライやカレーライス、ハンバーグを子供があげることを幼稚と見下すようなものだからだ。体操教師ヴァイルシュトラスが複素関数の基礎つけを行ったという数学指摘出来事のためか、志賀直哉は肉体的書き手と誤解されてきた。日本文学は、ザ・ドリフターズの『雷様』のコントのほうがまだ名作であるにもかかわらず、あいもかわらず志賀直哉をめぐって馬鹿騒ぎを続けている。彼らは志賀直哉を論ずる以前にそれを好意的に受容している自らの未熟さを自覚すべきである。成熟とは包容力である。私小説には包容力がない。日本人がコミュニケーションを嫌悪するのは、包容力が欠けているからである。未熟さを自覚できぬのなら、ゆでたうどんで首でもつって死ぬことを勧められても仕方がないであろう。なぜならば、彼らは生きることを本質的に嫌悪しているからである。いかりや長介なら、思わず、「だめだこりゃ」と言うに違いない。志村けんのギャグ・コントが街の中て見かけた光景をモデルにし、加藤茶の酔っ払いやくしゃみが最もリアルであるがゆえに笑いを誘うように、ある種のリアリズムは笑えるものだ。リアリズムはシリアスという意味ではない。笑いが軽蔑されるこんな不幸な国がよくもあったものだと呆れかえらざるを得ない状況にある日本人は子供のデカダンスを尊重する必要がある。日本人ほど子供のデカダンスという偉大な「力」を去勢するものも少ない。子供のデカダンスを知るには幸福になろうと楽観的に意欲することを「誓う」ことが必要である。それゆえ、われわれが葛西善蔵の作品を読む必要があるのは、子供のデカダンスという尊い「力」を想起するためにほかならない。

〈了〉

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